12

 果たして二人は喫茶店で落ち合う。
 麻衣子はものすごく奇麗になっていた。同じ女として、妬きたくなるほど素直に感心した。
「久しぶり。奇麗になったわね、あなた」
「そうですか?」
 輝くばかりの笑顔を見せる麻衣子に、上條は油断した。
「じゃ、あたしの家へどうぞ」
「はい、ちょっとお邪魔します」
 私服警備を引き連れ、女二人は歩いて三分のアパートに向かった。
「すぐ帰る?」
「はい、政人が心配するといけないから」
 上條は仕事上がりで夕食もまだである。それに、そろそろ政人から飯は食ったか電話が来ると思う。
「じゃ、さっそく用件ね。これよ、どうぞ」
 上條は二間あるうち、手前の部屋に置いてあった体重計を引っ張って持って来る。
「失礼しまーす」
 麻衣子は気軽にそれに乗った。
「あれ?」
 針はおかしな数値の上で止まった。
「すみません、これ……壊れてます」
「え? ウッソー」
 上條は夕飯の支度をしようとしていたが、麻衣子にこう言われて手を止めた。
「どれどれ」
 麻衣子を体重計に乗せたまま、上條も針を見る。
「あら……ほんとだ。壊れてる」
「おっかしーなー」
 ここで、やっと上條は気がついた。
 ……おかしい?
 待って。あたしの家の体重計なら壊れていてもおかしくない。そういや最近乗ってないし。
 でも……あの、課長の家のものが壊れている?
 そんなもの、……置く人?
「あなた……入社時の体重は?」
 少しだけ、声が震えた。
「48kgです」
 157cmで48kg。BMIでは痩せ気味と判断される。
「……最近、いつ量った?」
「今です」
 上條の心臓が、どくんと鳴った。とても悪い方向に。
 まさか……まさか……まさか……
 この数値が、もし本当だとしたら……
「ちょっと……付き合ってくれる?」
「え? どこにですか?」
「病院……」
「え!? どこか悪いんですか!?」
「まあ、ちょっと……」
「分かりました、すぐに行きましょう! あ、車なら呼びますから!」
 そうして二人はリムジンの車中の人となった。
 上條は忙しかった。まず、この車ナニ!? である。しかも世慣れないはずの麻衣子のこの堂々とした乗りっぷり。そしてさっきの疑惑。
 こりゃあたし一人じゃ捌き切れない。藤村も呼んどく?
「病院かあ……」
 上條は、麻衣子のこのつぶやきを聞いた時、「そういえば懐かしいな」というニュアンスだと思った。
「そういえば、薬貰おうかな」
 ……は?
「なん、……の?」
 これが核心だ。上條は突然理解した。
「風邪薬」
 !?
「なん、……で?」
「もうなくなっちゃったんです」
 今……なんて言ったの!?
 なに今の。もう? なくなっちゃった!?
 言葉の全てがおかしかった。これはおかしい。まるで、頻繁に飲用していると言わんばかり。生理痛に効く薬ならともかく、なぜ、風邪薬を常用している!?
「どう、して……なくなった、……のかしら?」
 詰問にだけはならないように。まだ、自分は抑えられる。
 輪姦騒ぎの時ですら、あの課長が、麻衣子になにも言わなかったのだ。それを自分が?
 でも。ひょっとしたらこの事態は。
 あれは所詮“騒ぎ”だった。実際起こったわけでもなんでもない。
 でも。これは。
 事実、いま起こっている事態なのよ!
「麻衣、よく風邪引くんです」
 さらっと事実を言われた。衝撃的な。
「ばかだから、ソファでうとうとして。気がつくと体が痛くなってて、微熱が出るんです。でも、薬を飲むとすぐ治ります。あの薬麻衣に合ってるんです、よかった」
 なにも、もう考えられない。
 いや、考えつくことはあった。
 あの数値は、正常だ。
「上條さん、顔色悪いですよ?」
 そりゃあ、そうでしょうね……
 上條の頭は忙しかった。今までの、麻衣子と関わって以降の全ての“ヒント”を思い出していたから。
 しょっぱな吐いたがきっかけだった。それでなぜ気付かなかった!?
 言い訳したいことは山ほどある。麻衣子の口から実際聞いてしまったのだ、吐いていてもご飯を何度も連続して食べられたと。課長からもそうだと聞いてしまった。さらには調理師免許を持っていると。極めつけが幸せです。
 でもそれらは、所詮この目で見た事実ではない。全て聞いたこと。又聞きではないだけ、全て聞いただけのこと。
 なぜこの目で見て気付かなかった!?
「あなた……どうして、体重計に今、乗ろうと思ったの?」
 麻衣子はさらりと答えた。
「今日、喫茶井上のマスターから言われたんです、痩せたなって。だから」
 上條の心臓が突然重くなった。それでも刻む、命の音を。
「そう……」
 あとはもう、あの江口総合病院へ行くだけだった。
 時間が時間だったので、正門は閉まっていた。麻衣子は、時間となって政人から電話が来た時、上條さんの具合が悪いから病院に送っていますと正直に言った。この情報だけで、実際警備からもその方向に向かっていると言われただけの政人が全てを判断出来る訳がない。分かった、だがおわったらすぐに帰れ、飯を食え。その後電話しろと、それしか言えるはずもなく。
 上條は、緊急受付窓口で、あの婦長を呼び出した。
「上條です、今村課長の部下の」
 そう言うと、麻衣子がきょとんとした。
「上條さん、そうだったんですか?」
 そうとは知らなかった。
「うん、ちょっと……まあ」
 本題はそれではない。上條は焦りながら病院へ入った。早く、早く確認したい。
 麻衣子は分からなかったが、二人は婦長室へと入った。
「すみません、突然お邪魔して」
 と上條は言って頭を下げた。
「あ、あの時の」
 麻衣子は、顔見知りを見つけられて喜んだ。
「お久しぶりです」
 麻衣子の輝く笑顔に、プロは騙されなかった。
「体重計を貸して下さい」
 麻衣子は不思議に思った。上條さんが具合悪いんじゃなかったの?
「はい、乗って。中川さん」
「もう、今村です!」
 すぐに。あなたは中川に戻るわ。
 果たして麻衣子は乗る。
「あれー? また壊れてる」
 はい決定。さあ、どうしてくれようかしら!?
「そうね、もう帰りましょう。あ、看護婦さん。中川さんがこの風邪薬欲しいって言ってるんですけど。なんでも、頻繁に引いていて、もうなくなっちゃったそうです。置いてありますか?」
 上條は「中川さん」と「頻繁に」をわざと強調して言った。
 プロがそれを見逃すはずもなく。
「分かりました。ちょっとお待ち下さいね」
 プロはにっこりと笑って中座した。
「あなたの」
 現在の、
「亭主は明日帰って来るのね? いつかしら」
「八時だそうです。早い方ですよ」
 なんてまあ、素直なんでしょう。
 あんな男と関わらなければ、そんなふうにはならなかったのよ。確かにあたし達の会社は厳しい、でも配置換えとかしてもらえればまだ居られたかもしれないのに。
 プロが風邪薬を持って来た。上條は麻衣子にそれを持たせる。
「そういえば、招待状ありがとうね。お礼の返事を書きたいから、住所教えてくれる?」
「お礼だなんて、そんな」
「だめよぉ〜こういうことはしっかりしないと」
「はい、分かりました」
 上條はにぃっこりと嗤った。
 じゃあたし看てもらうから、と嘘を吐き、麻衣子を帰して婦長と話しをした。その後、藤村に電話する。
「……と、言うわけ。
 明日十時、乗り込むわよ」
「オッケーオッケーそういうことなら任しておけ。大の修羅場を演じてやろうじゃん!」
 さすがの藤村の声も、怒りで震えていた。
 翌日、夜十時前。
 政人は麻衣子の中に生で出した後、いつものように麻衣子の尻をなでていた。真っ白な、なめらかな肌。
 麻衣子のだらんとした手を取る。
 小さな手
 この手がもし
 他の体を這ったなら
「……?」
 チャイムの音が寝室の外でした。あの音、来客だ。
 このマンションに来るためには、百メートル手前の道から私有地なので、そこで不埒者は警備の者によって退場させられる。突破するには相当の理由と腕力が必要。腕力で突破されれば百メートル奥の高い門が即座に閉まる、ここで大抵はジ・エンド。理由で突破されれば高い門前まで来られるが、管理人とは名ばかりのこれまた警備の者が再び理由を問い質す。これを突破してようやっと、このチャイムを鳴らすことが出来る。
 政人がそれを許している者は二人だけ。中川父母。
 麻衣子には、警備の存在など一切気取られぬようにしてある。
 こんな時間に、あの二人が?
 麻衣子はこの通り、いって眠っている。二ヶ月以上やりまくったとはいえ、大した運動はこれしかしていないのだ、そう体力がつくはずもなく。退職したのだから、むしろ体力は落ちている。
 ひとまず政人は寝室を出た。外と繋がるモニターを見に。
 不埒な突破者・藤村と上條は、まずマンション手前百メートルで、どう見ても剣呑な、どう見てもプロな男達二桁に、知らぬ間に一斉に囲まれた。
 ここは男の出番である。藤村、
「っつーワケで、俺達は今村課長の会社の者だ。調べりゃすぐ分かる」
 だが男達は、そんなのとっくに知っているのだろう。どく素振りは見せなかった。
「上條、携帯貸せ」
 藤村は上條のアドレスを操作する。
「ここに今村夫人のデータがある。バンゴ、アド、住所。全て当人から教わったものだ。俺達は今村夫婦に用がある、通してくれ」
「電話で済ませろ」
 かすかに外国語訛があった。
 おいおい……まさか実戦経験者かよ……
「だったら先にあんたらに用件を言う。聞きゃすぐに通してくれそうな、な」
 政人が見るモニターは、こちらからだけの一方通行のものだ。相手からは、こちらは見えない。
 来客者は、上條と藤村だった。
 突破したのか……
 上條は麻衣子の電話番号を知っている。確かに今は時間が時間だが。
 いつものごとく言った。
「用件は」
「中川さんの件よ」
 あの日と全く同じだった。だから訊く気になった。
「話せ」
 上條は、なんの前置きなく言った。
「中川さんの体重が三十キロ台だって知ってる?」
 政人の地獄が始まった。
「もちろん、たったこれだけのために、あたし達あんなやつらに取り囲まれたんじゃないわ」
 政人が答えを返せないなど、この二人こそは分かっていた。
「中川はあんたにやられた後から頻繁に風邪を引いていたと知っているか」
 答えられない政人に、上條はザマァミロと心の中で毒ついた。
「週二・三回のペースで、あれから今の今まで毎度だってさ。
 今村政人。中川麻衣子を返せ、たった今離婚しろ!!」
 二重になっているエントランスのガラス扉が二つとも同時に開いた。
「……さて、と」
 藤村は興奮を抑えるように言った。
「地獄の三丁目に行きますか」
 開いた扉の奥は、共有スペースだろうに、シンプルだが二人が見れば分かる、おそろしく値の張る豪奢な作り。たかが扉とエレベーターを繋ぐだけの通路だというのに。
 一番奥にはエレベーターが四基並ぶ。一番左の扉が開いていた。
「こっちだな」
 二人は知らないが、それぞれ各階への専用エレベーターである。各階につき居住者はひと家族のみ。
 二人は乗り込むと、エレベーター内のボタンは上か下かの二つしかなかった。これで、これが直通エレベーターなのだと知った。
 二人は密室内で、無言だった。
 エレベーターを出ると、家に通じる通路は外から完全遮断されていた。そして、家の玄関とおぼしきものは一つしかなかった。
 最上階全部家か……
 差に萎縮していた麻衣子。さぞ、この環境を受け入れられなかったに違いない。
 喫茶井上のマスターがこの異常に最初に気付いた。つまりはたまに麻衣子を見た男がたまたま気付いたということだ。
 なぜそれが俺じゃなかった。確かに課長に最初牽制された。こっちとしても邪魔はしたくなかった、同じ男、気持ちは分かっていた。それにしたって。
 二人はほどなくして玄関に辿り着く。おそらくそうだろうとは思っていたが、ノブをひねるとあっさり開いた。
 さあ、地獄の入り口だ。
 侵入すると、とたんに香しいにおいがした。
 紅茶だ……
「来い」
 政人はハウスウェアだった。髪もおろされ、三十に近いというのにかなり若く見えた。
 その次に、家の中を見回した。
 一体何億だ? 全てが極上の品だった。ゆったりとした広く高い空間、威圧感のあるものはなにもない。値段を知ろうと思わなければ特に。
 最高級の家具が控えめに並ぶ。どこかレトロでノスタルジックで。政人の趣味じゃない、確実に、麻衣子に合わせた内装だった。
 二人は靴を脱ぐと、言われた通り居間へ向かった。政人はティーカップを三つ盆に持っていた。
 すすめられるまま上座に並んで座る二人。
「飲め」
 かちんとおろされた、華奢で値の張るカップ。藤村は思う、確かこれって博物館あたりで同じの見たぞ……
 政人は二人の向かいに座り、二人に先んじて紅茶を飲んだ。そして、名刺を二枚二人の前に出した。
「俺は今村政人」
 なにを今更。そう思った二人は麻衣子と違い、渡された名刺をまじまじ見た。
 ここの住所、政人の名前、携帯番号、プライベートアドレス。政人がこの名刺を渡したのは四回しかないことを、二人は知らない。
「俺、……ね」
 やっと自己紹介出来る間柄になりました、ってか。
「俺は藤村」
「あたし上條」
 二人は紅茶に口をつけた。たまらなく美味しかった。
「喫茶井上のマスターは俺の友人だ」
 突然の政人の言いように上條はあやうく茶を吹きかけた。
「ウッソーあそこあたしのオアシスだったのにぃいい!!」
「大声を出すな。麻衣が起きる」
 藤村はあきれた。なんとまあ、俺達は課長の手のひらの上ってか。
「中川は今どこでなにを」
「俺にやられて寝室でのびている。その内起きる、話は手短に」
「さっき言ったろ。返せっつーの」
「麻衣は俺のものだ」
「全然気付かなかったの?」
「全く気付かなかった」
 藤村は、これを言う気はなかったが、ここまで相手に素直に出られて少々毒気が抜かれた。
「……多少は俺達にも責任がある」
「俺にだけある」
「そう言うなって。あの婦長が言うにゃ、間近で毎日見ていたやつの方が気付かないだろう、だとさ。
 あんたが調理師免許を持っていることは知っていた。飯が美味いだろうことはこの茶で分かった。吐いていたさなか中川が連続して食ったこと、幸せだと言ったのは上條から聞いた。服を選んでやった時、すでに奇麗になったと思えた。幸せの絶頂としか思えなかった。それでも。
 喫茶井上のマスターが、痩せたと最初に気付いたそうだ。んなもん、たまたまだ。最悪、もっと後にもっと体重が落ちた時ようやっと気付くかもしれなかった。
 あんただけの責じゃねえ。こっちから勝手に首突っ込んだのに気付かなかった俺にも責任がある。悪かった」
「藤村……」
 そこまで言うかと、実際体重計の針を見た上條は思う。
「麻衣がどうやって風邪を引いたか教えてくれ」
「当人に訊きなさいよと言いたいところだけど、まあ、どうせ離婚するんだから……」
「離婚などせん。麻衣は自分の身に起こった出来事を全て説明出来る能力がない。そう俺が思っていると知られたくない。教えてくれ」
「上條。言ったれ、今生の別れだ」
「ま。そうよね……
 あの子はぼーっとするのが好きなんですって。それを、ここなんでしょ? ソファに座りながらこーんなでかいテレビどうすんのよ……を見ながらうとうとすると。自然、なんにも被らず苦しい体勢になりながらうたた寝しちゃうんだって、お腹減ったと思うまで何時間も。で、風邪を引く。
 当人曰くささいなことだって。毎度七度近くまで熱が出るけど、市販の風邪薬が体に合うので飲めば治る。大したことないからあんたに言ってない。
 だってさ」
「ありがとう」
 二人はそっぽを向いて気味悪がった。こんなエラそーなやつからそんな素直な言葉をこんな所で言われるとは。虫酸が走るとはこのことだ。
 だから、次に政人がどこかに猛然と向かいながら、突然こんな捨ぜりふを残されても、咄嗟に判断出来なかった。
「出て行け」
『は?』
 オイオイ今言ったことと違うじゃん。
 と二人同時に思ったものの、次に出た行動は違った。そこに麻衣子がふらふら現れたから。
 麻衣子は政人がいる日に、目が覚めた時夫がそばにいなかったことはない。それなのに、いない。どこへ行ったのかと思って寝室を出て来たのだ。その格好。
 まだ真っ裸ではないだけの、最初のあの格好である。政人のパジャマを上だけ着て、痩せぎすの脚でふらふらと。眠い目をこすり。ほんの少し盛り上がった乳房の真ん中にぴんと勃つ真っピンクの乳首が浮いてよく見える。さらに目を凝らせば、ほっそりとしたふとももには愛液と精液が伝っている。
 どこまではっきり確認したかは当人に問い質さなくては分からないとしても、とにかく藤村は瞬時に後ろを向いた。それしか出来なかった。
 上條はというと、藤村よか異性と寝た回数が少なかったので、その差が出た。つい、呆然とその光景を見てしまった。
 だから、麻衣子が目を見開き、次に悲しそうな瞳で、
「……なんで……?」
 と言われた時。
 まさか、これって……違う、修羅場?
 上條はやっと理解した。そう、これは政人にとっての修羅場ではなく、自分達、いや上條と麻衣子にとっての修羅場なのだと。
「え、え、え」
「バカ上條、後ろ向け!」
 なんて言ってももう遅い。政人は麻衣子の目が覚め、寝室のドアノブに手を掛けた瞬間麻衣子に向かって猛ダッシュしている。
「あぁーーーーん………」
「麻衣」
 ひええ、なんて大の大修羅場ーーー
 とは思ったが、上條はなにかに取り憑かれたかのように固まって動けなかった。残念ながら、これが四者の経験の差。
 政人は麻衣子を抱き上げ、とにかく麻衣子の真っ裸に近い状態を二人から隠した。
「麻衣。麻衣。麻衣」
「ぅああーーーーん……」
 麻衣子は大粒の涙を流した。この家でいろいろ泣いて来たが、こんなに悲しい涙は初めてだった。
「麻衣。麻衣」
「ひどいまさと……ああーーーーん……」
 それでも麻衣子は政人の首に腕を回す。もうこれは、麻衣子にとって呼吸するのと同じこと。
「麻衣。麻衣。麻衣」
 麻衣子には、後ろを向く藤村は目に入らなかった。上條だけ、いや、上條と政人がこの家で一緒にいると思ってしまった。
「なんできれいなひとがこの家にいるの……ぅあああーーーーーん……」
 ひええ、奇麗な女ってあたしですか?
 と思う上條。だったら後ろを向きなさいよ。
「違う。麻衣」
「ひどい……ああーーーーーん……」
「麻衣。麻衣。麻衣」
 泣き叫ぶ麻衣子、宥める政人。
 後ろを見ているので映像が分からず、音声だけが耳に届く藤村は思う。なんつー色っぽい声で愛称を呼ぶんだあんにゃろう。最初会った時麻衣子と言っていた時も十分愛情を感じたし、男が聞いても色っぽかったが、ありゃ俺達の手前抑えていたな。世慣れず、これが最初で最後の恋である中川にとっちゃ、下手に「泣くな」とか「誤解だ」とか言い訳されるよか効果覿面だろう。
 しばし、泣き声が続いた。
 麻衣子は政人をすき以外、突出した感情が長く続く性分ではない。怒っても政人に宥められりゃすぐ機嫌は直るし、悲しくてもすぐ政人が慰めてくれる。
 麻衣子はおばかだから、これが政人の浮気であるとか、やきもちを妬いているのだとか、そんな言葉も出ず。
 数分を経ずして、麻衣子はわーんと大泣きからぐずぐずひっくひっくに治まって行った。その間政人はただ名前を呼ぶ。
 分かっている。ただひとり、自分を愛称で呼ぶ、だいすきな夫。この声を、自分以外に出しはしない。だから、根性もないし、泣く気力はいつまでも続かなかった。
「……っ、……っ」
「麻衣」
「……っ、……なに……」
「お前は俺にどう想われている」
「……あいされてる……」
「お前は」
「……だいすき……でも」
「なんだ」
「なんで、きれいなひとがここにいるの……」
「あの二人は」
「ふたり?」
「お前も知っているあの二人は、お前の体重が激減したと知らせて来た」
「!? ……あんなの、体重計が壊れただけだもん!」
「俺達の家に、壊れたものなどあると思うか」
「……そんなのしらない。政人、麻衣の質問に答えてない」
 政人は後ろを振り返った。
「やだ! 政人、麻衣以外のひと見ないで!!」
 ひえーどうしましょう。と上條は思った。
「二人いる。よく見ろ」
「見ない!! 政人、麻衣の質問に答えて!!」
「俺にとって女性など、麻衣だけだ。他なぞ知らん」
「じゃどうしてあのひとがここにいるの!!」
「もう一人、彼氏を連れて俺に談判しに来ただけだ」
 彼氏じゃないってば! と上條は言いたかったが、この場面では仕方がない。
「……そんな、そんな……どうして家に上げたの!! ひどい政人!!」
「だそうだ。出て行け」
 政人は麻衣子に見ないでと言われたのを無視して頭だけ後ろを向き、それはそれは冷酷な、血も凍るような低い声で二人に命じた。
「……へいへい。行くぞ上條。今村夫人、俺だ、藤村だ。済まん、もう来ない」
 上條は、さすがにここで自分が声を出したらしゃれにならんと分かったらしい。無言で藤村について行き、今村家をあとにした。
 藤村は、あの名刺を置いて行こうかなと、ちらっと思った。この状況ではあの二人を離婚させられそうにないし、それに、あの二人はどうあっても別れないだろう。よく見せつけられてしまった。だから、もう関わり合いにならない方がいいかと。
 だが、今回の二つの関連した案件のこともある。あの課長でも見抜けないことはあるのだ。第三者が余計な節介をかまさなくてはいけないこともあるだろう。
 だったら多分、近いうちに、他の誰でもなく藤村が、どうしても麻衣子にとって必要になる時が来る。
 上條と藤村は、門の外に出るまでは無言だったが、私有地外に出た時、二人同時にへたりこんだ。
 そこは閑静な住宅街、もう既に深夜。街灯以外の明かりはなく。
「……はぁーーーー……」
 深い、深いため息をついた。
「あたし達……なにしに行ったんだっけ……」
「言うなよ……」
 上條は、貰った名刺をくしゃくしゃにして、その辺にぶん投げた。
「ちょっとー、聞いてるんでしょう? これ、処分よろしくー」
 上條は、私有地に向かって言う。
「いいのか?」
「あんたはいいの?」
「今回みたいなこともある。俺は持っとく」
「あっそう。あたしは勘弁。もうこれ以上愛人疑惑持たれたくないわ」
「ま、俺達がここへ来ることはもうない。っつーワケで安心して下さいあんた方ー」
 藤村も、私有地に向かって言った。
「さて行くか。ペーペーは明日も仕事があるぞ、っと」
 その頃今村家ではというと、政人が麻衣子をソファに座らせようとしていた。しかし。
「……まさと。紅茶まで出したの」
「済まん」
 麻衣子はぷいっとそっぽを向いた。政人はすぐに麻衣子の愛らしいほっぺに手を添えてこっちを向かせる。
「もういや。あんな人達、結婚式とか呼ばないで」
「分かった」
 これであの二人は、その後の職務が少しやりやすくなった。あの二人の立場で今村家の結婚式だの披露宴だのに出たら、どちらも出社が難しくなるのだ。
「ほんとに分かったの? 麻衣がどれだけ哀しい想いしたか分かったの?」
「済まん」
「……全然分かってない」
 麻衣子はふたたびそっぽを向いたが、政人はすぐこっちを向かせていつもの大人のキスをした。
「ん……ん……ん……」
 そりゃあすぐ濡れる。最初っからそうだった。極上のキス、全てをからめ取られてしまうような。
 あとはいつもの愛撫。首筋に熱い舌を這わせると、
「ま……まい、ごまかされない……」
「もう濡れているのにか」
「そんなのいつも……」
「知っている」
「もう……」
「なんだ」
「あんなことしないで……」
「分かった。済まん」
「ほんとにしないで……」
 裏切らないで。浮気しないで。嫉妬するでしょう?
 そんな言葉も知らないのか、麻衣。
「分かった。しない。鍵も変える。なんだったら成城に引っ越すか」
「……ううん。ここがいい……」
「そうか。麻衣、済まん。俺のそばを離れないでくれ」
「そんなの出来ない……」
「知っている」
 立っていられない麻衣子をソファに恭しく、優しく座らせると、愛しげに押し倒す。パジャマのボタンを外してはだけ、ちいさなふくらみを揉む。
「麻衣。麻衣。麻衣」
「まさと……まさと……」
 そこで一発の後、麻衣子の意識がないうちにあの二人の狼藉の痕を全て消し、政人は掛けふとんを持って来た。それに麻衣子を包んで、ソファに座り、麻衣子を前に抱く。
 目が覚める頃いつものキスを。
「麻衣」
「ん……」
「聞け」
「ん……」
「麻衣の体重は三十キロ台だ」
「……。まだ言ってる。あんなの間違い」
「間違いじゃない。俺が、壊れたものを家の中にのほほんと置いておくと思うか」
「……」
「責任の全ては俺にある。二日以上もものを食わせん、これで他人に言われるまでなにも気付かなかった。俺はバカだ」
「違う!!」
「まだある。風邪を頻繁に引いていたそうだな。これまた気付かなかった、俺は」
「違う! 違う違う違う!! 麻衣が悪いの!!」
「よし分かった。俺達が悪い、そうだな」
「……」
「なんだ」
「……だって……」
「俺は麻衣に、毎日必ず三食摂らせる。麻衣はうとうとする時は今のようにふとんにくるまる。それでいいな」
 さっさと完璧な解決案を言われて、麻衣子は反論など出来なかった。
 翌日政人は、麻衣子の変化に気付かなかったこと、あの二人を通してしまったことを謝罪して来た警備の者達を褒めた。だがすぐに、結果としては麻衣子を悲しませたので、今後はどんな理由であっても中川父母の二人以外通すなと命じた。