10

 政人は思う。このノリで行くと、さあやろうと思った途端に麻衣子の生理が来るのではないかと。
 恋は日ごとに深まって。限界も果てもないらしい。そんな中で、麻衣に「今はいや」と拒否されたら?
 まさか腕ずくで……
 いや、それだけはだめだ。
 いつ来るか分からない。つまりは麻衣の性分能力から行けば、おそらくかなりの高確率で下着やシーツを汚していたのではなかろうか。喫茶井上のマスターから聞けば、こんなの見たら俺に怒られると言っていたという。
 怒ることなど出来はしない。たとえ嫌いと言われても、離婚してやると言われても、愛情の裏返しとしか思えない。全く、目に入れても痛くないとはこのこと(またお初)だ。
 ただ、一般的に女性はそういう場合恥じらうものだし、隠したがるものだと思う。間違いなく、麻衣は自分以外と褥を共にしたことはない。つまりは汚した場面を他人に見せたことはない。確実に恥じらうだろう。
 しかし事前に分からないものはどうしようもない。
 そう思いながら十月のとある金曜夜八時に帰宅した。
「お帰りなさい、政人、あの……」
 いつものように輝く笑顔を見せてくれず、下を向く麻衣。そりゃピンと来る。
「どうした」
「あの……あのあの、私……」
「なんだ」
「た、……多分……」
 かなり時間が掛かったが、言ってくれた。多分二・三日中に生理が来る。ひょっとしたら今日かも。だから今からナプキンをしているし、つまりは行為のお相手が出来ない。ごめんなさい。
 ……まあ、予想していたことだ。こっちが勃った時に言われるよかましである。
「分かった。まず飯だ。それから薬を飲め。あとは寝ろ」
「でも……」
 麻衣だって分かっている。俺に底がないことを。
 ひょっとしたら、麻衣だって……
 夕飯をつくった。
 麻衣はもう風呂に入っているという。じゃ先に行ってるね。そう言って寝室へ向かった。
 さてこの週末はどうするか……我ながら、ぼーっと過ごした時など人生にない。だがそれを言えば麻衣は萎縮する。
 また仕事姿でも見せるか。いやだめだ、だったら今までの週末はなんだったのかと、いくら麻衣でも訊いて来る。
 寝室へ向かう。
 今日くらいは俺もパジャマをきっちり着込み、向こうを向く麻衣の後ろへ。
「麻衣」
 返事はない。寝たか? そんな気配はないが。
「……ん?」
「腹をさすってもいいか。優しくする」
「……ん」
 手を腹の付近に回すと、麻衣が俺の手を取って、おずおずと自分の腹に触れさせた。拙い動きで、軽く、そっと。
「このくらいならいい……」
「そうか」
 そうしてしばらく……
 三十分ほどか。麻衣が身じろぎした。この動き、トイレだ。
「ちょっと」
「分かった」
 この辺は夫婦だ。いや、この辺もだが。
 麻衣はトイレへ。いつもより足取りが早い。来たか。
 一人でベッドになどいたくない。かと言って、音を聞きに来たのかなど思わせたくない。ゆっくり後をついて行った。
 麻衣はトイレ中、必ず水を流す。社内では総務が怒るな。俺達の家ではいいが。
 すると麻衣が、バスルームの扉を開け、顔だけ覗かせる。
「あ。あのあの……」
 この表情。とても言いたいことがあるが、とても言い出しづらいことがある。と言っている。
「分かった」
 時間的に言って排泄とシャワーをおえている。だから行った。
「あ。あのあの……」
 脱衣場の藤の椅子に座り、麻衣は顔を真っ赤にして下を向いている。どうもOKサインが出ているような……まさか。
「あ。あのあの……」
「なんだ」
「あの。言ったら、忘れて欲しいんだけど……」
 残念ながら俺は麻衣が今まで言ってくれた言葉、紡いだ喘ぎ声、表情、その他諸々全て覚えている。忘れはしない。
「なんだ」
「わ、私……」
 これまた時間が掛かったが、要するにこうだ。
 麻衣は生理の処置が下手だ。まあ、そうだろう。
 年に三回は失敗する。今回のように事前に予兆があるのはましな方。初日の血量が多く、どんなに重ねても漏らしてしまうことが往々にしてあり。
 俺とひとつベッドにいる以上、もう失敗したくない。つまりはタンポンを使いたい。しかし、使いこなせたことがない。
 そこで頼む。俺なら麻衣の中を熟知しているので、死ぬほど恥ずかしいが俺にやってくれないか。
 俺は思わず二つ返事しそうになった。なにせ女関係は全部やった、そんなものすらお手のもの。その割に麻衣にはさっぱり振り回されっぱなしだが。それでいいが。
「分かった。説明書きを見る、少し待て」
 携帯と同じだ、一応ポーズは取る。
 病院から出されたタンポンを手に。
 血の流れる中ショーツを脱がされるのは、そりゃ恥ずかしいだろう。麻衣はもう、目を開けてはいられないようだった。
「脚を開け、少しでいい」
「うん……」
「挿れるぞ」
「うん……」
 挿れるに関して痛がらせたことはない。
「どうだ。感覚がないのがいいと書かれてあるが」
「うん……ない……」
 さっきから思うが……
「あの……」
「なんだ」
「だから……」
「なんだ」
 OKサイン出しまくりで……
「私……」
「なんだ」
「ヘン……」
 そうか。
 もう、それ以上言わせる気はなかった。糸を掴み、ズル抜く。
「あ……」
 代わりに、待ち望んだものを。指を……
「あ……」
 水音を立てて……
「あ……」
 それから……風呂場で……
 いくら俺でも一発で終わらた。
 あとはタンポンを処置して寝かせた。翌朝、飯をつくって起こしに行くと、麻衣は起きているはずなのに目を開けなかった。相当恥ずかしがっている。
「麻衣。俺は嬉しかったぞ。いつも俺からばかりだったからな。いつでも言え。言葉にしなくてもいい、分かる」
「ん……」
「俺を見ろ。麻衣」
「ん……」
 まだ目を開けない。
「鈍痛は」
「ん……大丈夫」
「どこか出掛けるか」
 もちろん、その気はないとはっきり分かっているが訊いた。
「ううん……いい……」
「そうか」
「あの……政人……」
「なんだ」
「暇でしょう……? お仕事とか、していいよ……」
「仕事なら済ませた」
「お仕事するところ……また、見たい……」
 またしても魔法の言葉。
 そう、麻衣は魔法使いだ。欠点だらけの、俺の恋する魔法使い。
 理由がやっと分かった。俺は麻衣の大いなる欠点に恋をした。能力なくてまぐろでずぼらで。それがいい。
 どんどん俺を振り回せ。いくらでも俺をお初に陥らせろ。お前だけだ。お前だけ。
 望みは全て叶えてやる。言われた通り、麻衣の目の前で仕事した。
 モニターに向かう俺の後ろから覗き込む麻衣。
 分かっている。この、モニターのウィンドウに現れる様々な言語の意味がなんであるかを質問したい。そう麻衣は思っている。
「Blijf bij mij. Omdat ik zoveel van je houd」
「???」
「Moi tomak bhal pau,Mengweswe,Ndikufuna,Imzadi,Namumutan ta ka,Volim te,Eu te amo,Obicham te,Chit pa de,Gihigugma ko ikaw,Hu guaiya hao,Aya gvgeyu'i nihi,Siuhang oku dia,Mi amas vin,Tora dost daram,Au lomani iko,I moag di gern,Ig liebe di,Ch'ha di ga"rn,Ina sonki,Nu' umi unangwa'ta,Taim i' ngra leat,Kesalul,.. ._.. ___ ..._ . _.__ ___ .._,Te iubesc,1-80-17,Na lia,Ti amo,Wo ai ni.
 Ich liebe dich.
 Je t'aime.
 I love you」
 おわりの三つぐらいは知っていて貰いたい。さすがに。
「あの……」
「なんだ」
「ほんとにお仕事……してる?」
「している」
 恋を。お前を見初めてからずっと。お前にだけ。
「あのね」
「なんだ」
「私、休みの日はずっと家でぼーっとしていたの」
 その割には呼び鈴を押しても出てくれなかったが。
「それで」
「政人はそうじゃないでしょう?」
「そうだ」
「えーーー!?」
 もちろん大嘘。
「俺だって人の子だ。ぼけっとしたい時もある」
 さっぱり大嘘。
「……ほんとに?」
「本当だ。麻衣こそ退屈じゃないか、俺の仕事姿など」
「……そんなことないけど……なんだかお仕事しているように見えない」
 そんなことはない。実際、今メーラーを起動したら連絡・報告・指示待ちのメールが山ほど。
 俺は部下に、常々自分で考えろ、判断しろ、俺を担ぎ出さず自分で相手に会えと言っている。それが出来ない者達じゃない。
「政人はどうしてあの会社を選んだの?」
「日本だけに留まる仕事をしたくなかった。あとは見栄だ」
「……みえ?」
「今村の男は体面を重んじる。大学は東大だ」
「……」
「吐くか」
「……ううん」
「具合が悪くなったらすぐに言え」
「……うん」
「見ていろ」
「うん……」
 俺の背後に立ち、仕事を眺める者など、入社数日でいなくなった。後は全員、俺の前でただ緊張し、ただ指示を待った。
 麻衣を立ちっぱなしにさせる気はない。かと言って、本気ではない打鍵の音など聴かせる気もなかった。
 キーボードはこうやって打て、麻衣。
 首にしたお前の最初の上司にも、次の上司にも妬いた。俺こそがお前に仕事を教えてやりたかった。なにも知らないお前に、俺が一から。そうすればお前はその心を折ることはなかったのに。
 十分ほど打ち続けると、背後からささやかな、拙い限りの拍手が聞こえた。
 数日後。生理がおわると、麻衣子はまたしても唐突に思いついた。
 雑貨屋に行きたい。
 元いたアパートから歩いて十五分の所、交差点の角に、麻衣子お気に入りの店があった。麻衣子好みのささやかな小物が置かれたあの雑貨屋。
 とはいっても、元のアパートに置く所はないし、お金もなかったので今まで購入したことはない。今はそうではないし、また行きたい。とことんこぢんまりしたところが好きなのである。
 早速政人にメールすると、だったら今度の土曜日昼飯を食ったら行くぞとの返事。
 一人で行きたいなあ……
 あの店だったら道も分かるし。元いたアパートの住所をタクシーの運ちゃんに告げ、そこから歩いて行けば済むことだ。最近の政人はとみに麻衣子を激しく求めていることはよく分かっているし、はしたないとは思うけど麻衣子もそう。
 だからその時間を取らせたくない。どうやって言えばいいのかなあ……
 政人が麻衣子を閉じ込める気がないのは分かっていた。なにせ玄関のドアはいつも開いたままなのだ。これが、カチリと閉じられ開けられもせず、なら、いくら麻衣子でも抵抗しただろうが、それもない。
 普通にお散歩したい……もう迷わないから……
 政人の時間を取らせたくなかった。
“あの、休みの日は、……なので、別な日に一人で外出したいです”
 麻衣子にとっては清水の舞台から飛び降りる思いの文面である。しかしその返事は。
“俺のそばにいたくないのか”
 であった。こんな時に限ってメールで。反論出来るはずもなく。
 かくして十月某土曜、やって来ましたあの雑貨屋。
 独身人時代の麻衣子が行った所に、タクシーで乗り付けるべき場所などない。それが外車で……
 政人の金銭感覚には、きっと一生付いて行けないと実感する麻衣子であった。
 抱きかかえられながら店内を見て回る。普段なら恥ずかしくて出来ないことだが、直前までやられまくって余韻に浸ってぐったりしているので、本来これは激恥ずかしい行為であると認識出来る能力もなく。麻衣子はぼーっと、店内の小物を眺めていた。店員はもちろん、こんな二人にどう接客すればいいのか分からず困っていた。
「政人。これいい」
「分かった」
 それはガラスで出来た直径二〜三センチほどの、でこぼこでピンクがかった透明な石。文鎮と思うには軽すぎ、かと言って他になにか使い道があるのだろうかと思わないでもない。まさに単なる小物。四百五十円。
 レジに持って行くと店員に、
「お包みしますか?」
 と訊かれた。
「えっと……包む?」
 おばかな麻衣子。
「そちらの方へのプレゼントとかでは……」
 この場合のそちらの方とは、選んだ麻衣子が政人へ、ではなく、政人が麻衣子へ、となる。
「プレゼント……」
 麻衣子は、ここで初めて気が付いた。実に遅過ぎ、これぞ麻衣子の真骨頂。
「政人、誕生日いつ?」
「十月十六日」
 なんとあと数日後。
「私、十月十七日……」
 なんと一日違い。
「た、誕生日プレゼント買わないと! 政人、なにがいい!?」
「麻衣がいい」
「あの……」
「麻衣が俺のそばにいること。それが誕生日プレゼントだ。年中贈れ」
 あの……。
 ところでこの石っころ、いかがなさいます? と訊きたくて店員はうずうずしていた。
 とにかく買うものは買って、あとは一路家に向かって車中で。
「あの政人……私じゃなくて、なにかこう……ない?」
「俺が麻衣以外欲しがると思うか」
「あの……」
「十月十六日と十七日はなにがあっても休みを取る。そばにいろ」
「うん……」
「麻衣はなにがいい」
「えっと……」
「なんでもいい。全部やる」
「えっと……」
 麻衣子は困った。正直全部貰っている、これ以上思いつかない。
「あの……」
「思いついた時でいい、なんでもいい。誕生日を過ぎても構わん」
「うん。あの……」
「なんだ」
「そういえば……私、政人の年齢も知らないの……」
「今度で二十九」
 そうなんだ……
「歳を食い過ぎか」
「そんなことない!!」
「他に訊きたいことは」
 そういえば。
「えっとえっと」
 政人は思う、俺の恋する妻に限って訊きたいことを今全部言えるわけがない。
「あのあの。血液型は?」
「AB。麻衣は」
「O」
「他には」
「えっとえっと……ああそう、身長は?」
「187cm。麻衣は」
「えーっと、157cmです」
「殺す」
 ひえー久々に聞いた。
「えっとえっと」
「俺からも質問していいか」
「うん!」
「俺を知ったのはいつだ」
「え? えーっと……あのあの。政人がお仕事する部屋に呼ばれた時」
「そうか」
「えっとえっと」
「なんだ」
「いまの、どういう意味?」
「俺は我ながら、あの会社では名が通っていると思っていた」
 そういえば……
「そうそう。あの、政人に逢ったあと、会社の人に言われたの。普通は課長なんて四十過ぎでないとなれないのに、政人は三十前でもう課長さんだって。みんな、すっごいねー、って言ってたよ」
「他になにか言われたか」
「うーん……ああ、すっごいかっこいいって」
「そうか」
「うん」
「披露宴の招待状だが。麻衣の元上司、あの主任にも出しておいた、いいな」
「あ! そういえば……」
 彼女を招くべきは麻衣子である。なんたる迂闊とは思うが、麻衣子はいつもそうだがドジで忘れる。
「ごめんなさい……携帯だけ見て、すっかり忘れて……」
 すると車が停まった。信号で、ではなく、自宅の駐車場に着いたらしい。
「俺は職務上、主任の携帯番号を知っている。なにか話をしたいことは」
「……ある!」
 そういえば。またも迂闊でドジでしょうがないが、退職の際のあいさつもしていない。
「えっとえっと」
「待て。家に帰ってからだ」
「うん」
 政人は横抱きにして家に麻衣子を連れ帰った。
 政人はひとまず麻衣子をソファに置き、紅茶を淹れる。二つテーブルに置いて、麻衣子を抱き寄せ後ろに座った。
 麻衣子の携帯に主任の番号を登録してやる。なお政人は、麻衣子をこの家に初めて連れて来たあの日とっくに麻衣子の通帳から引き落とされる携帯代だのなんだの全てを自分持ちにしてある。麻衣子はさっぱり気付いていない。
 麻衣子は緊張のおももちで電話した。今日は土曜だが、主任は仕事熱心で、サービス残業も休日出勤もいとわない。
 出てくれるかな……
 掛けた。
「もしもし? どちら様でしょうか?」
 主任の声だ!
 麻衣子は久々に緊張した。
「あ、あの! 中川」
「今村だ」
 政人が麻衣子の耳元ですかさず言う。
「え、えっと……今村麻衣子です! 主任、お久しぶりです!」
「まあ、今村夫人? お久しぶり。元気?」
 麻衣子はほろりと泣いた。
「あ、あの……ごめんなさい、私、招待状……」
「あらどうしたの? 届いているわよ?」
「えっとえっと……」
 すると後ろの政人の動きがあやしくなった。ただ腕を麻衣子の腰へ優しく回していただけなのに、それが段々上に来る。さらには息が近づいて、あの日されて以来ずっとだが、一番赤い所有の刻印あたりに熱く激しい舌が這う。
「ぅン! もう政人……」
 麻衣子、それを振りほどけるわけもなく。
「まあ……くすくす。私、お邪魔かしら?」
「え! いえあのそのあの、……す、すみません勝手して退職してしまって、ご挨拶もなしに! ぁン政人だめってば!」
「くすくす……じゃあ、ちょっと白状しようかしら」
「え? もう、だから政人!」
「私、契約社員だったの」
「え?」
「会社の一方的な都合で半年更新を繰り返しいただけの途中入社五年目で主任。聞いているでしょう、この会社は課長になるのすら二十年は掛かるのよ。誰が私を正社員にして、あのフロア目掛けて、時期外れの昇進までさせて配置したと思う?」
「……まさ、と……」
「なんだ」
「一つ訊くわ。あなたと課長が知り合ったのは、入社以前? それとも後?」
「入社式の、時です……」
「そう。当時既に全部門を統括していたあなたの夫のことだから、入社以前に逢ってあなたを入社させたのだと思っていたけれど……違ったの。偶然だったのね。
 よかったわね、逢えて」
「……はい……」
 麻衣子はじーんと来た。本当に、単なる偶然だったのだ。
「いいこと。あなたは一人で外に出ちゃだめよ」
「え? なぜですか?」
「あなたの夫が心配するからよ」
「……どうしてですか?」
「あなたはとても魅力的だもの。さらに言うなら、言いよる男性をあしらう手練手管はない、そうでしょう」
「てれんとかはありませんが……魅力的などでは……」
「少なくとも、課長にとっては魅力的なのよ」
「でも……」
「あなた、課長に心配されたい?」
「……されたくありません」
「だったら一人でふらふら出歩かないの。物騒よ、もうこの国は昼夜関係ないって、よく分かっているでしょう?」
「確かにそれは……」
「あなたのことだから……そうね、地図も持たずに知らない土地を歩き回って迷子になっていたとしたら。
 私の言うことを聞きなさい。一人では出歩かないこと、いいわね」
 麻衣子は、他の誰あろうこの人に命ぜられたら、もはや犬のごとくはいと言うしか選択の余地はない。その前に、とっくに犬。
「は。はい」
「あなたは課長の妻になったのだから、課長のそばにいてあげなければだめよ」
「はい」
「課長から、なにかプレゼントを貰った?」
「……はい」
「例えば、とても高価だからと言って、拒否反応を示してしまったり?」
「……はい……」
 なぜ、分かるのだろう。
 暗くなると、政人の愛撫が激しくなった。服とブラをたくし上げられ、ナマで胸を揉まれる。
「ぁンもう政人! ぁ……」
「勇気を持ってもう一度、その店に行きなさい。大丈夫、あなたの夫がついているわ。しがみついてでも、抱きついてでもいから」
「は……ィ……ン」
「あとは、あなたの夫に思いっきり甘えること。いい、男っていうのは、好いた女に甘えてもらうためだけに一生懸命働いているのよ。
 あなたの夫のために、言いたいことを全て言いなさい。分かったわね。じゃ、お邪魔なようだからもう切るわ。私へは、いつ掛けてもいいのよ」
 もう、電話は切れても。麻衣子は自分で、切断ボタンを押せなかった。ソファで一発、あとはいつものように……
 本日は十月十六日。俺の二十九回目の誕生日。
 一年前、いや、今年の三月三十一日まで、この日をこんな気持ちで迎えようとは思っていなかった。毎年この日には、友人知人社員取引先、切った女に至るまで、様々な品やら花やらを贈られた。
 今年の、いや四月一日からのプレゼントは、一生続く最高の宝物。
 前日の十五日は夜九時に帰り、飯を食って歯を磨き、風呂に入ってからやりまくった。いつもなら翌日も続くが、それではせっかくの誕生日がいつもの週末になってしまう。
 話をしよう。そう思って朝、とりあえず風呂に入って麻衣を居間へ。紅茶を淹れる。
「あ。あのあの」
 質問をさらっと言える性分ではない麻衣。だがいつか、普通に言わせてみせる。
「なんだ」
「あの……どう、プレゼントすればいいの? 私、いつもそばにいるし……」
 その答えは最初から用意していた。ただそれを、いつの状態の麻衣へ言えるか。それだけ。
「その前に」
「?」
「少々、説明をしよう。お前と、俺もだが、今飲んでいる紅茶は友人から淹れ方を教わった。それが誰だか分かるか」
 麻衣は首をかしげくちびるを俺の舌の分だけ開ける。
 そのくちびる、もう少し開けてみせる。
「喫茶井上のマスターだ」
「えーーー!?」
 そりゃ驚くだろう。
「あのマスターは俺と同い年だ。一緒の学校にも、一緒の会社になったこともないが、人づてに知り合った。あまり欲のない男だが、喫茶店は家業だそうでな」
「そうなんだ……」
 麻衣の性分能力では、だからナンパされた時丁度よく助けてもらえたのか、とは思えまい。
「あの店へは、一人で行っていい」
「……いいの?」
 なにせ俺の前では言えない本音をぽろぽろ漏らしているようだからな。マスターにはもう勘弁と言われたが、ウェイター共々スパイ役を続けてもらう。
「いい。お前に気詰まりな思いをさせるつもりはない」
「そんなふうに思ったこと、ない……よ?」
 ならいい。
「麻衣。俺と最初に逢った後、吐いたそうだな」
「!」
 目をかっと見開いて驚く麻衣。
「ご……ごめんなさい!」
「何故謝る」
「だって私……」
「なんだ」
「あの、……吐いただけじゃなくて、その……政人のこと、きょ、恐怖の大王なんて、言っちゃってたの……」
 知っている。
「俺があの時ぺらぺら喋ってお前と親しくなっていれば、職場に戻った時お前は周囲に弁明し辛くなる。それは分かっていた。俺としては、夕飯の約束を取り付けること、お前の携帯の番号を知ることが出来ればよかった。わざとあんな風に接した。済まん」
「……」
「それと、仕事をしている姿を見せたかった。さらには本音を言うと」
「言うと?」
「お前のドジを見たかった」
「ひどいーーー!!」
 飯を食わせて歯を磨き、寝室へ連れて行く。
「麻衣。今日は俺の誕生日だ」
「うん」
「そこで、して欲しいことがある」
「そう? 政人、なんでも言って? 私、なんでもするから」
 いかに人生経験が足りないか、如実に分かるこの言葉。
 だが、言うとは分かっていた。わざと言わせた。その言葉を、今日の日をどれだけ待ったか。お前は解るまい。
 さぞ後悔するだろう。だがもう、俺は止まらん。
 麻衣の服を脱がせ、俺も脱いで。お互い生まれたままの姿で。
 今日ばかりは、いつもは暗い寝室を明るめに。
「あの……政人……」
「なんだ」
「暗くして……」
「お前を見たい」
「あの……」
「なんでも言え、なんでもすると言ったな」
「そう、だけど……」
 もう引き返せはしない。
 たとえ性の快楽だけで俺のそばにいてくれているとしても。
 もう止まらん。