9

 翌早朝政人は自宅に寄ると、麻衣子が寝室でくーくー寝ているのを気配で確認してから家事に取りかかった。炊事掃除洗濯、こんなもんはさっさとやる。そこで目につく、居間のテーブルの紙切れ。
 さて今度はどんな難問か。俺も男だどんと来い。
 拙い字を読むと、
“花屋に行きたい”
 だった。
 最初に思ったことは、日本一の花屋へ最高に気張ったカッコして行くこと。で、次に思ったことはそれの全否定。これまでの出来事を反芻・反省すれば、これはきっとこぢんまりとしたそこらの町の花屋へ、フツーのカッコで商品を買いもせずただ見たいってことだろう。
 政人はおばかでもまぐろでもずぼらでも能力なしでもなかったし、そろそろ妻のキャラを掴んで来たので、すんなり正解に辿り着いた。
 金曜、頼られ慕われ縋られている部下社員取引先その他諸々を全て振り切って午後七時、政人は自宅へ帰った。すぐ腹の鳴る麻衣子には、夕方いつも通り果物と飲み物を腹に入れておけと言ってある。
 夕飯中、政人は麻衣子に訊いた。
「どんな花屋だ」
 大体分かっていたが、この間の札束早とちり事件(?)を反省した政人は、麻衣子の口から説明して貰いたかった。
「うん。あのね、私一度しか行ったことないんだけど、会社にいたとき先輩に連れられて行ったことがあったの。会社のわりと近くで、確か……“侘助”さんとか、だったかな」
 なるほど、あそこか。
「どんな花がいい」
「ああ、えっと、どんなっていうか、お花屋さんの雰囲気が好きなの」
「そうか」
 その後一晩中やりまくって、翌土曜。
 ぐったりした麻衣子に昼飯は食わせ、抱き連れて、政人は午後二時、侘助に到着した。こぢんまりとした花屋。いかにも麻衣子が好きそうだ。
 犬の麻衣子は政人を感じると腕を回すので、無意識な今でもそうである。そんな妻に、政人は熱く囁いた。
「麻衣。着いたぞ」
 誰が聞いてもとろけるような甘いセリフだった。熱く激しく愛していると如実に言っているような。
「……ん……」
 答える麻衣子の言いようだって、とってもとっても甘かった。
「麻衣。麻衣。麻衣」
 店員は目のやり場に困った。
 麻衣子は緩慢に起きる。目の前には愛し合っている超いい男。無意識に目をつむり、くちびるを夫の舌の分だけ開ける。
 まただっぷり濡れ場を見せつけて、頼むから勘弁してくれと店員は思った。
 その後麻衣子は一人で歩くことなど許されず、ずっと政人に抱えられながら店内を見て回った。
「政人。これいい」
 やっと欲しいものを言ったか。と思ってそれを見ると。
「サボテンがいいのか」
「うん。ちっちゃいし、かわいい」
 それは、麻衣子の小さな手のひらにも乗るような、小さなものだった。値段は千円にも満たない。
「……だめ?」
 至近距離でほんの少し首をかしげられ。くちびるは無防備に舌の分だけ開けられて。目が覚めた時からOKサイン出まくりで。
 店員はまたもや大の濡れ場を目撃させられた。もー来なくていいから、そんなもんやるからとっとと帰って。と、来店拒否ブラックリストの一番上に今村夫婦は登録された。
 やられまくった週末が過ぎて、月曜朝。
 麻衣子はけたたましいサイレンの音で朝九時に叩き起こされた。
「え、え、え、なに!?」
 火事でも起きたか、はたまた地震か。
 しかし、救急車とかパトカーとかの音にしては直近で鳴っているような……
 ふと、音源を見るとそれは目覚まし時計だった。
「もう……なにこれ……」
 ベッドをおりて目覚ましを止めると、はかったように携帯の音。おばかな麻衣子もそろそろ夫のキャラを掴んで来ているので、まず間違いなく相手は政人だと思う。
「……麻衣子です」
「麻衣。起きたな」
「もう……なにあれ……」
「飯を食え」
「眠いもん……」
「食ったら寝ていい」
 昼もこの調子で叩き起こされ、麻衣子が完全に目を覚ましたのは午後四時だった。どこに出掛ける気も起きず。また眠る気にもならず。今度はネットで遊ぼうと思った。パソコンを起動してヤフーを見て。
 そしたら「おめかし特集」なる記事が組まれてあった。なんとなくそれを見ると……
 夕飯をおえた午後六時。麻衣子は電話した。
「今村です」
「あら、中川さん! どうしたの?」
「今村です!」
「はいはい。で、どうしたの? そろそろ亭主の横暴に飽きた?」
「そんなことありません! 政人はとっても優しいです!!」
「はいはい」
 二人はいつもの喫茶井上で落ちあった。もちろん後を付けている私服警備員を複数引き連れて、なのだが、麻衣子も上條も気付かない。ただし、マスターは気付いていた。
「要するに、おめかししたい、ってこと?」
「えっと……」
 麻衣子はない頭を整理しながら言った。
「私とあの人は、差があり過ぎるんです」
「そう?」
「そうです」
「どんな風に?」
「服とかアクセサリーとか……外見上だけじゃなくて、中身もそうなんです。向こうは全部完璧で、私は欠点だらけ。
 ……今更政人を失えません。でも、政人の意思一つで、私は簡単に路頭に迷うんです。それを止められはしない。
 いつまで続くかなあって……漠然と……」
「全部受け止めなさいって、あたし言ったわよね」
「……はい」
「その上で、ちょっとは近づきたいからおめかししたい、って思ったんじゃないの?」
「でも私……高い所に連れて行ってもらっただけで、高い服をもらっただけで吐いちゃうような根性なしで……」
「じゃあさ。あたし達が連れて行く程度の所は、どう?」
「え?」
「どんな“高い”かは分からないけど、あたしと藤村のバカ程度が連れて行ける所って、そう気詰まりな所じゃないわ。呼ぶからさ、ちょっと今から行ってみる? もちろん、ウィンドウショッピングで構わないのよ」
「はぁ……」
 そこで上條はさっそく藤村に電話する。
「おっしゃ分かったオッケーオッケー、そういうことならいつでも呼べ」
 ってなワケで、喫茶店内で藤村も交えて。
「うん。じゃあ、ちょっと教えて上げましょう。
 その、ネットとやらに書かれていた通り。カノジョが自分のためにおめかししてくれた、なんて、男としてはすごく嬉しいことだよ」
「そう……ですか?」
「そうだよ。確かに人間外見じゃないけど、例えば汚い料理店になんて入りたくないじゃん、たとえ味がどんなによくたって。それと同じこと。中身を磨くだけじゃなく、外見もきちんとしないとね。どっちか片っぽだけじゃなく、両方やるといいんだよ」
「そう……ですか……」
「ただしこれには注意が必要」
「え?」
「無理しないこと。気負わないこと。ひとつずつやること。両方なんていうと疲れるでしょ。片っぽだけ、はだめだけど、片っぽずつ、ならいいワケよ」
「なるほど……」
「んじゃ早速ショッピングに行きますか!」
 その後三人が来たのは某区アパレルショッピング街。
 麻衣子はおそるおそる入店した。大丈夫かな、吐かないかな。
 そこは、以前連れて行って貰った所とは明らかに違っていた。
「どう?」
 上條が言い、藤村もそうだが、麻衣子が倒れたりしないかどうか注視する。
「えっと……大丈夫、です」
「そう、よかった」
 理由は簡単。何億と現ナマを見させられた後の一束などに気負わないのと同じように、日本一の宝石店に連れられた後、言っちゃ悪いがペーペー平社員が連れて来られるような店に行っても気負う訳がないのである。あの麻衣子ですら。ああ耐性ってオソロシイ。
 そこまで内情は知らないが、麻衣子の様子が変わらないと見た二人、一店だけではなく何店とハシゴして、何着も服を買って行った。これがいいあれがいいと何度も何度も麻衣子に試着させながら。
 荷物が多くなり過ぎて、麻衣子でも持てる分だけ持ってもらい、後は自宅に送ってもらうことにした。
 翌朝麻衣子はいつもの電話中、政人から今日は夜八時に帰る、夕飯を一緒にと言われた。平日はずっと会社にいる、というわけでもないらしい。
 いつも通り果物と飲み物でお腹を調整。政人を待つ。
 時間ぴったりに帰って来た夫はこう言った。
「麻衣。デートに行くぞ」
 デートって……言ってくれた……
 言いたくても言えなかったはずなのに。まさか自分からは言えないし。どう言おうかと思っていたのに。
「うん!」
 二つ返事で麻衣子は了承。さっそく出番が来た昨日の服を着て、と。
 着替えてバスルームを出ると、そこには神々しいばかりに輝く美貌の貴公子が。あの日よりもかっこいい。もう、どう表現したらいいか分からない。
「……かっこいい……」
 いくら麻衣子でも思わず呟いた。それが政人の、貪欲に乾いた心の全てを一瞬で満たしたと思えもせず。
 すると政人はそれを合図と言わんばかりに、麻衣子に向かって近づいて……
 翌日、上條は社内で私用電話を受けた。学生でもあるまいし、社内で私用携帯を使うのは別に構わない、ただ会話がいかにも私用です、でなければいいだけで。
 ただしこの会話は、そうではなかった。
「上條さん……ごめんなさい……」
 と来たもんだ。上條は席を外し、社員食堂へ向かった。午後一時であったので、時間的にも助かった。
 そろそろ「勤務時間中に私用電話は止めてね」と言おうと思わないでもないが、相手は勤務時間もへったくれもない専業主婦、なにかあった時「電話するなと言われたからしなかった」と言われても困るし、余計なことを吹き込むなと釘を刺されてもいる。これを言うべきは自分ではない、あの課長だ。そう思って、麻衣子の話を聞くことにした。
「なに、どうしたの? 怒らないわよ、なんでも言って」
「……いいんですか?」
 泣いているらしい。これはよほどのことだ。そろそろ離婚か。
「いいわよ、全部聞いてあげる」
 すぐにこの言葉を後悔するとも知らず。
「じゃあ、……言います。さいごまで聞いて下さい……」
「分かったわ」
「……破かれたんです……」
「は?」
「服……破かれたんです……」
 は?
「政人……スーツすっごく似合ってて……そう言ったら、濡れちゃうような色っぽい顔して近づいて来て……」
 おいおい今なんつった。
「いきなり、びりって……」
 おいおいせっかく人が買ったものを。
「下着もはぎ取られて、……いつもは、ブラをたくし上げられて、ショーツは脱がされないまま布を横にどけられてそこから指挿れられて……」
 だーかーらー。
「なんですけど、……全部……ストッキングも、びりびり破かれて……あっという間に全裸にされて……」
 電話切っていいですか?
「脚開けって言われて、その場でいきなり挿れられて……」
 ……
「抜かずに寝室まで連れられて……後はいつもなんですけど一晩中……」
 ……
「さっき……やっと起きたんです……」
 上條は泣いて後悔した。そして、もーあんな夫婦イヤ! と当然の結論を出した。当たり前である。
 その日藤村のおごりでいつもどおり居酒屋に行き。多少、っつーか服を破かれた、というところまでは言うと。
「がーっはっはっはっは!」
 と笑われた。
「……なんで笑うのよ……」
「イヤね。大体そうなるだろうと分かってたし?」
「ええ?」
「バカだねー。キミ、男性心理というもの知らないの?」
「……多少は知っているつもりなんだけど?」
 上條は麻衣子と違って純粋無垢でも清らかでもない。付き合った男も寝た男も当然複数、どちらも二桁台。とはいえ淫乱でもなんでもない、二十六という歳では普通なくらいだ。
「じゃあ多少教えて上げましょう。いいか、男っつーもんはね。稼げないうちから、なんだけど、好きな女の子が他のオトコのお金でおめかししたなんて聞いたら、そりゃあタダじゃおかないよ。懐が十分潤っていたら特にね」
「……なるほどねえ……ってあんた、じゃ最初っから破かれるって分かってあの服買って上げたの!?」
「オイオイ違うぜ、あれって課長のカードで買ったじゃん」
「そりゃそうだけど……」
 藤村と上條は、会った回数こそ少なくても、麻衣子と政人の金銭感覚が全く合わないであろうことを知っている。特に麻衣子。世慣れない麻衣子にあんなゴールドカードを。
「価値知ってんのかしらねえ」
「ぜーんぜん知らなさそ」
「でしょうねえ……」
 翌日麻衣子は政人に、次の休日はデパートに行くぞと言われた。そして、この時やっと思いつく。そういえば、出掛ける際は政人と一緒と言われたのに一人で外出しちゃったこと。
「もうしない……ごめんなさい……」
 政人、もうこの言葉は信じない。麻衣子の携帯を出せと言った。
「俺が家に帰れない時どうしても出掛けなければいけない時もあるだろう。その時はここのタクシー会社に電話しろ」
 ありていに言えばそこはタクシー会社でもなんでもない。今村家のお抱え運転手プラス黒塗りのリムジンである。
 政人の実家は都内にあり、でかい日本家屋である。父はでかい会社の社長をした後、名誉職である会長という肩書きは持ったまま実質引退して、母と現在もよろしくやっている。政人は両親の濡れ場を毎日見て育ったわけでもなんでもない、とにかく広い家なので、住んでいる棟ごと違うのだ。だから、住むのには支障はないが、いつまでも大の男が親の家にいるのもなんだな、とは思っていた。
 政人の性格上、親にどんな些細なことでも頼ることなど有り得ない。だから大勢いる使用人は一切連れて来なかった。しかし、いくら政人でもまさか聖域があーんなにおばかなまぐろ犬とは予見出来ず。よって、どうせ両親は滅多に実家から出ないだろうし、だったら俺が使ってやれ、ってなもんで、黒塗りと運転手を貰い受けることにした。新たに人を雇うのは簡単だが、子供の頃からの付き合いな運転手の方がいいに決まっている。
 喫茶井上のマスターに麻衣子達の会話を教えてもらったところ、なんとあの麻衣子が自分のためにおめかししたいと言ったそうだ。なんたる喜ばしさ。ついこの間まで吐いたがどうしたと言っていたのに。
 こんなことならやはり手順を踏めばよかったか。いやしかし。
 女の子は買い物が好きだ。麻衣子とて例外ではない。そう思って逢ってすぐ、つい日本一の宝石店に連れて行ったが間違いで。だがスーパーに行ったらあれだけ嬉しそうにして。
 デパートにでも連れて行き、好きなものを買わせよう。麻衣子は自分のことを逐一箇条書きで説明出来ない。逢った最初嫌いなものは訊いたが、おそらく他にもあるだろう。手っ取り早いのは現物を見せること。あの時のように、言葉でこれがいいとか悪いとかは言えなくても、視線を見れば大体分かる。
 だが、おめかしというと例えば化粧品も含まれるが、麻衣子のあの真っ白でなめらかな肌に既製品を施させる気は全くない。日本一の専門店に連れて行き、麻衣子に合った特注品を。おめかし用の服も、麻衣子が自分で選んだだろうが、政人に言わせればもっといいものを着させたい。
 要するにやっぱり専門店がいいのだが、逢ってすぐにそれで失敗。
「政人。あの、披露宴に来て欲しい人達のリスト、作ったの」
「そうか」
 さてどんな形のものが出て来るか。
「これ」
 それはいかにもエクセルで作りましたというプリントアウトされた表。意外と普通。
 政人はなんとなく、意外とフツーな上司と部下の雰囲気だな、と思った。
「分かった」
 と言って、なんとなく麻衣子の頭をなでた。気分は親鳥である。またもお初。
 麻衣子は、仕事が激出来るであろう夫にOKを貰ったので、なんとなく雛鳥の気分になった。こういうところは似た者夫婦である。
 中川の実家からも、形は違えどリストは届いていたので、これで招待状を出せる。ということはその問い合わせを、政人ではなく麻衣子にする愚かな者も出る訳で。
 もちろんそんなことを麻衣子の耳に入れるつもりはない。いつも通り、一応麻衣子の許可を得たということにしつつ、最中麻衣子の携帯を操作した。
 逢ってやられて約一ヶ月。麻衣子はぼけっと自分を見たら、そういえばと思い出した。美容院に行きたい。
 麻衣子の髪は肩を少し超えたくらいのストレート、真っ黒。いつもこの髪型なのだが、この間のおめかし特集には髪も、そういえばお化粧のことも書いてあったので、そうしたい。
 この間、服を破られた時は、最中、
「とても似合うし奇麗だが、俺が買ったものにだけ袖を通せ」
 と言われた。結局買って封を切ったのはあの服だけで、他は全部返品。麻衣子は泣いた。せっかく協力してもらって買ったのに……
 このノリで行けば美容院も化粧品もほぼ以下同文だろう。怒られたくないので、政人にメール。
“美容院に行きたいです。お化粧品を買いたいです”
 これを見た政人の心はまたも充たされた。そういうことなら激自信がある。ここは一発日本一の店へ。
 ……はだめだ。いやしかし。
 やりまくった後の土曜午後二時、政人は自分の買った、麻衣子に似合うツーピースを着せ、区内某所に麻衣子を連れて来た。
 麻衣子は店内を見渡す。椅子などの家具がアイボリーで統一されている。机というか、デスクはガラス。面積はそう広くはないが、奇麗な店だった。店内に他の客はいなかった。
 店員とおぼしき、アパレル産業独特の雰囲気を持った女性が今村夫婦を迎え入れる。
「いらっしゃいませ。本日はどのような?」
 政人が答える。
「散髪とメイク、ネイルを」
 すると店員は、麻衣子にファッション雑誌を何冊か見せた。
「最近流行の髪型は……」
 そこには、染まったくるくるふわふわの髪型が。
「えっと……」
 麻衣子はそういうことは全く分からないので、政人に訊いてみる。すると政人はページをめくり、
「これはどうだ」
 と言って来た。見ると、そんなに染めず、そんなにカールさせない、他と比べると落ち着いた髪型。
「うん……じゃあ……」
 すると早速店員は麻衣子の髪を洗い始めた。
 政人は待つ間、店内に置かれた革張りのソファに体をもたげていた。そこに近づく男性が一人。彼に言った。
「無理をさせた。済まない」
「いえいえ、この位のこと……」
 政人は、区内の空き倉庫を麻衣子の好みに改造して“美容院”とやらを演出してみせた、という訳である。さらには知り合いの、国内コンテストで優勝経験もある、いわゆるカリスマ美容師をこの日のために引っこ抜き。
 二時間ほどで散髪は終了。お次はメイクである。これまた国内コンテスト優勝経験者を。
 メイクそのものはプロ中のプロがしたのであまり時間は掛からなかったが、麻衣子にやり方を教えるための時間は掛かった。また、麻衣子専用の化粧品は今日昨日には出来ない、それは後日となった。
 全てがおわって、麻衣子は変身後の自分を夫に見せることに。
 緊張する……だめだったらどうしよう……
 すると政人は、他では見せないであろうとろけるような甘いマスクと声で、
「よく似合う、麻衣。奇麗だ」
 と言った。麻衣子は腰がすっぽり抜けた。
 披露宴の招待状がくまなく届けられた頃。当然、それに対する反応がある。
 まずは政人。招待状を出す前に、事前に報告しなくてはならない人物がいる。媒酌人役の、政人の会社の社長である。
「いや目出たい」
「ありがとうございます」
 そこはビル最上階、他には取締役のみが出席出来る豪華会議室があるだけのフロアの一室。
 どんな企業でも、社長と言ったら狸か狐である。目の前の人物もそのうちの一人。
「君にはもう少し、上の女性でもいいのではないかね」
「今村に閨閥は不要です」
「それは知っているが」
 社長と政人の父は知り合いである。
「まあいい、内示を。二ヶ月後、君は専務取締役だ。かなり年が若い上何階級も特進だが、プロジェクトも成功した、うるさい爺どもも黙った、君ならいいだろう。いずれこの椅子も君のものだ」
「どちらもありがたく頂戴します。ときに、私の執務室に無法者が来られては困るので、対処を願います」
「ああ、秘書課や受付の美女群かね? 君のこれからの部下かね?」
「どちらもです」
「そういうことなら秘書を付けるべきではないかね?」
「邪魔なだけです」
「女性をとは言わんよ。側近を持ちたまえ」
 次に麻衣子。
 とはいえ麻衣子の友人知人には事前に言っておいて反応もあの通り。問題は、麻衣子の前職場での反応である。
 麻衣子が政人と結婚するとは瞬く間に会社中に伝わった。その内情を問い質したいのは当然、すると相手は誰か、ということになる。
 当社自慢の美女社員、及び優秀な切れ者社員達が政人の執務室へ行こうとしたが、専用エレベーター前で全員止められたことはもうすでに噂になった。となると次の対象者は麻衣子ということになる。
 麻衣子の携帯の番号を知っている人間は、同期を始め少なからずいた。そこから漏れ、本来鳴っぱなしになる予定だった麻衣子の電話は、政人が事前に手を打ち登録した番号以外は着信拒否にしてある。すると後は二人が住む家に、ということになるが、そこはガードが固かった。
 残るはあと一名。麻衣子の上司、あの主任。
 あの日麻衣子にしたように、社員達は主任に詰め寄った。しかし。
「私はね? 大層怒られたのよ今村課長に……あの日、中川さん吐いたんですって? 知らなかったわよ、上司の私が。人づてに聞いて後から知ったわ。どれだけ課長に叱責されたか分かって?」
 主任は、自分に群がる多数の社員に聞こえるようにこう言った。
「なぜあの時、中川さんを病院へ連れて行かなかったの? 勝手に行けばとだけ言うような者達に、なぜ私があの二人の個人情報を漏らさなくてはならないの? そんな輩に招待状など、届くはずがないでしょう?
 よく覚えておくことね。言いづらいからと当人に直接談判出来ず、所詮は第三者の私によってたかって多数でしか言えないような者達に、出世の道などないわ」
 このフロアで招待状が届いたのは、もちろん主任だけだった。他のフロアへも招待状は届けられた。その内の二人、上條と藤村。
 二人は当然、自分達にそれが来たなどと周りに吹聴する気はない。後日ばれるにしても。
 ただし、政人が結婚することについて上條への風当たりは強かった。
「残念ねえ……」
「ついに結婚されちゃってぇ……」
「せっかく愛人にしてもらったのにねえ……」
 陰でこう言う人々は皆、誰も上條が本当に政人の愛人になったなんて思っちゃいない。ただ単に、日頃の鬱積のはけ口を求めてのこと。当然、そんなもん上條は気にも留めない。
「ところでさあ。どうなのよ、実際のところ」
 上條が友人と思っている女子社員にすら、こう言われる有様である。
「確かコピー取り三回、絨毯掃除四回だったかな」
 なんて言っても誰も本気に取りゃしない。
「まったまたー。あの頃なんでしょう、結婚する人が課長の執務室に呼ばれたのって。関係、あるんじゃない?」
 ええ有りますよぅ、大いにね。
「ズバリないわ。それに、結婚する人のことも知らないのよ。っていうかね、もしあたしが疑われているようなことが本当だったら、悪いけどその人出番ないわ」
「言えてるね!」
 と、言う程度で済むならいいが。
「ちょぉっと……顔貸して下さる? 愛人さん」
 と言われるのはまだ序の口。
「あぁら秘書課のボスな誰かさん。ここで大声出して言えない程度のことで、ツラを貸さなきゃいけない義理なんてないわ」
「あなただって、誰かさんとやらになにかしたいでしょ? お手伝いして下さる?」
「あぁらあたしって、課長と面識あるのよねえ少なくとも三回は。今あなたの言ったこと、その通り伝えてやろうかしらん?」
 などという会話が最近は多くなった。全く困ったものだ。上司はあれ以来自分に話しかけようとはしないし。おそらく課長は、社外でもそうかも知れないが、特に社内の女性となど一切口も利いていないのだろう。だがそれも男となれば話は別、相当釘を刺しまくっているに違いない。
 自分でこれだ。分かっているだろうが、あの世慣れない麻衣子をふらふら一人で外になど出してはおるまいな。上條は余計な心配を巡らすのであった。
「だぁーいジョーブだって。あの課長に限ってそんな片手落ちなんてことしませんよ?」
 いつもの居酒屋で、藤村と飲む。
「でもさあ、あの二人ちょーっと性急過ぎたでしょ。相互理解ってもの、さっぱりなくて結ばれちゃったじゃない? 体だけで、心は後からなんて、女として言わせればかなり辛いわよ」
「まあ確かに順序としてはよくないな。ただし、男として言わせれば。課長が惚れた時期、その後のうちの会社の惨状、それを救うため八面六臂の大活躍だった五ヶ月間。ほとんど逢えなくて、やーっと逢えたら夜の夜中に家に来てくれて。課長って調理師免許まで持ってるんだろ? 心づくしのご飯をさ、吐いているさなか全部食ってくれたなんてさあ。
 正直、やらずにいられるかっちゅーの」
「そりゃ、……そうかも知れないけど……」
「さらに言うなら。結婚するって知られりゃ、お前や主任にたかった輩は本来中川だけに行くんだ。そんな時、のほほんと出社出来るわけがねえ。絶対に、速攻で退職させなきゃならなかった。男として言わせれば、守るためにはそれしか手がなかった。相互理解しながら付き合うにしても、人の目がある社内恋愛は中川じゃ無理だ」
「そう……なのよねえ……」
「中川は社会人にゃ向いてねえ。課長でなくとも分かることさ。問題は、社会経験が全くないことによる、お互いの差っつーもんを今頃あの二人はよくよく実感しているだろう、っつーこったろうが」
「が?」
「今の中川は時間がある。多少の余裕もあるだろう。もう籍まで入れたんだ、これからゆっくり話し合えばいい。はっきり言うが、あの二人なら取るべき道はあれしかない。課長の判断はなに一つ間違っちゃいない」
「差かあ……中川さん、最初っからそれに気付いてあたしの家に来たのよ。埋まると思う?」
「それは中川じゃなく、課長の努力次第だね。なんにせよ、中川に責を負わせたくないよ、俺でさえそう思っているんだから課長ならなおさらだよ」
「あたしさあ……また余計なこと、吹き込むべきだと思う?」
「うーん。それは難しいなあ。中川は自分の身に灯った赤信号を、他人にその通り伝える能力がはっきり言ってない。遠慮している、とか、抱えている、とかじゃなく、社会経験のなさなんだろうけどさ。
 お前は今まで通り、負担を感じさせず真実を引き出せばいい。だが、やり過ぎれば途端にヨケーな吹き込みだ。線引きは難しい。
 たまに喫茶井上で茶でも飲めば? 普通に会話してさ。おかしいなあと思えば課長にチクるってのでどう?」
「あたし課長の執務室の内線番号も携帯番号も知らないわよ」
 役席者の電話からはどんな内線でも掛けられるが、ペーペーフロアから役席者へは無理、内線番号が表示されない仕組みになっている。
「俺も知らないんだよね。っつーか、どうにか調べても、俺達の番号に出てくれるかは甚だ疑問だし」
「そうよねえ……」