8

 その頃麻衣子は、今頃になってようやく気付いたことがある。
 私、専業主婦なことなにひとつやっていない。
 思いついたのは、使用済み生理用ナプキンをごみばこに捨てた時だった。そういえばこの家、ごみも、洗濯物も、溜まったとこ一度も見ていない。
 ……全部政人がやっているんだ……
 仕事をさぼるなと言いながら、その要素の全てを麻衣子が作っている。
 いけない、きちんとしなきゃ。
 まずは基本で掃除。とは言ってもこの家にはちり一つない。でも、とにかくやってみなくちゃ。
 掃除用具が収納されたあのロッカーへ。ぞうきんを取り出して。
 昼となり、電話が鳴る。政人だろう。
「政人」
「麻衣、昼だ。飯を食え」
「うん」
「気分は」
「いいよ」
「なにをしていた」
「お掃除」
 まさかこの時、政人があの惨劇図を再び頭に浮かべたなど思いもせず。
「あの、お洗濯も政人がしていたんでしょう? ごめんなさい、私がするから。洗濯機どうやって動かせばいいの?」
 いずれ来る質問だった。専業主婦をしろと言ったのは政人、だったら家事をしようと思うのは当然。
 一人暮らしだから家事ぐらいは出来るだろうとたかをくくったが大間違い。麻衣子の性分能力を思えば。モップにすらけつまずいて倒れ、挙げ句頭を打って昏倒され。あの時脳波に異常がなかったのは偶然、打ち所が悪ければ今頃……
「帰ったら教える」
「うん」
 教える気などさらさらない。だが時間は余っているのだ、ぼーっとするのに飽きるなど当然。なにかしようと思うのも当然。きゅうくつな思いをさせるつもりはないが、外に出せば迷子になり、さらにはナンパされ。断る術も知らず。知り合いの店にいてくれたからこそ助けられたが、そうでなければ今頃……
 目の前に、処女のまま、あんな清らかなまま現れてくれたことなど単なる奇跡、知れば知るほどいやになるほど分かった。処女などいくらでも抱いて来たのに。誰にもこんな独占欲など沸きはしなかったのに。
 こんなもの、いくらなんでも知らなかった。恋とはなんとおぞましい。
 金曜五時を待ちわびる無能な社員の心理すら分かってしまった。どれだけお初な心境に陥らせてくれるのか。
 麻衣。お前は何者だ?
 電話した。
「今おわった。すぐ帰る」
「うん」
 披露宴に招きたい知人友人の話を訊こう。多少あの女と話をさせたが、じっとひとりでいたのだ、いろいろ言いたいこともあるだろう。全部言える能力がないのは知っているが、それでも話を訊き出して、きちんと吐き出させ。飲み込ませるのは精液だけでいい。
 ……そうじゃない。どうしていつも犯ることばかり考える。盛りの付いた十代か。女も知らない童貞か。
 麻衣の体はあの通り。我ながら自分以外、ぱっと見そう性欲を掻き立てられる対象ではない。
 だが中は……己の全てを飲み込んで……中だけじゃない、真っ白でなめらかな肌は……
 玄関を開けた。
「政人」
 俺を見て、輝くばかりの笑顔を見せる麻衣。
 もう、これでいいだろう?
 なのに麻衣は俺の首に腕を回す。初めて逢った時教えた通りに。まぐろなくせに愛らしいくちびるを少し開けて。言葉で教えずとも最初からその身に叩き込んだ、呼べば深く熱いキスをすると。そのためくちびるをそんな風に。
 望み通りキスをした。簡単に火がつく……消せはしない……
 と、思っていると音がした。麻衣の腹から。ぐーと。
 すると麻衣は腹を抑えて恥じらって真っ赤に。すぐ上目遣いで、聞いた? という表情で。
 助かった。こんな音を聞いて免状を持っている人間が調理場に向かわずにはいられない。
 抱き上げる。……しまった横抱きにするんだった……
「だいすき」
 囁かれる。……いい加減、それは今すぐやれと言っているようなもんだと教えなければ……
 完全に振り回されている。まぐろなくせに。言えば一発で即離婚かもしれんが能力ないくせに。
 するとまた腹からぐーと音が。……こうなりゃ生理中はずっと鳴ってろその腹の虫。
 麻衣をソファに置いてキッチンへ。今日は鶏の唐揚げだと言うと大好物! とまたしても、輝くばかりの笑顔を見せる。もうこれで満足しろ。
 仕事以上に集中して飯を。これだったら絶対に、乱パの友、あの悪友以上のものがつくれたと自負出来る。
 テーブルに並べると、美味しそうと、またあの笑顔。笑顔が増えた。幸せだ……
 食べおわると、麻衣が食器を片付けると言って来る。どうやっていたのか見てみたくてさせてはいたが、思った通り拙い限り、危なっかしい。……まさかけつまづいて皿を割って挙げ句それで怪我をするとか……
 今度は過保護か。次はなんだ。こうなりゃもうなんでもいい、どんと来いだ。
 歯を磨くためにバスルームへ、横抱きで。だからいいと安心して、またしてもたかをくくっていたら、首に腕を回され……これは麻衣の、唯一のお誘い方法で……
「むが」
 今度はなんだ。
「むが」
 まあ、大体分かる。トイレか、そうか。
 麻衣を置いてひとり居間へ向かう。話だ話。
 ぶすっと待つ。トイレか。麻衣は恥じらって、必ずシャワーを浴びる。穴の周辺を念入りに。
 ……そうじゃない。
 だから……何故、トイレの後シャワーを浴びたと分かる経過時間でこっちに来る。なんだその格好は。最初にさせたあの通りとはどういうことだ。乳首が浮いているぞ。下半身真っ裸? 生理中だろう、ナプキンはどうした。
「まーさーと」
 鈍痛はどうした。たんこぶはどうした。なんだその呼び方は。語尾にハートマークが付いているぞ。
「あのね」
 分かっているのか。ソファに座る俺の膝の上にナマ脚をがばっと開けて乗るとはどういうことだ。
 これでも腐るほど女を抱いた。出されたOKサインを読み損ねたことなどない。
 眼前には、どう見てもOKですよと全身で語る恋する妻。
「……なんだ」
「あのね」
 だからなんだ。
「おわったの」
 なにがだ。
「生理」
 なんだと?
「まーさーと」
「……なんだ」
「私、生理不順なの」
「……それで」
「いつ来るか分かんないし、いつおわるか分かんないの」
 じゃあの血の池はなんだ。なんだったんだ。人の気持ちも知らないで。
「おわったの」
 なにがだ。
「聞いてる?」
「聞いている」
「あのね、生理おわったの、だから……」
 だからなんだ。それがどうした。おわった? あれから三日しか経っていない。
 俺がどんな気持ちでいるか、何故お前は分かろうとしない。こうなりゃその体に刻み込んで……
 待て。おわった? ということは……
「あのね。まさと」
 だからなんだ。
「まさと。まさと。まーさーと」
 首をこころもち傾けて。上目遣いで。くちびるを俺の舌の分だけ開けて。とろんとした女の顔で。
 それで、そんな風に腕を回されたら……
「あのね……」
 ……
「だから……」
 ……
「……いや?」
 たったの二文字
 魔法の言葉
 言われた途端貫いて
「はぁ……」
 月曜、麻衣子が目を覚ましたのは午後三時。お約束の空腹で。
 もう、凄かった……
 全身がだるい。当たり前である。
 こんな放心中、本来なら気付かなかったが、なぜか目に入った携帯電話。ぱかっと開く。着信いっぱい、メールいっぱい。全部政人。
 そういえば、飯は一日三食全部食えって……出来ないこと言わないで……
 とりあえず最新のメールを読んだ。
“飯を食え”
 次。
“起きたら電話しろ”
 次。
“起きろ麻衣”
 ……だから、耳元で着信音が鳴っても気付かないほどにしたの政人でしょう……
 緩慢に起きて、刻み付けられた体と心を引きずってキッチンへ。鍋を温める。それを盛って、居間へ。
 もぐもぐ食べていると着信音。
「政人」
「麻衣。起きたか」
「うん。さっき」
「飯は」
「今食べてる」
「朝飯は」
「寝てた」
「食え」
「無理って分かってるくせに……」
「お前が悪い」
「どうしてーーー!!」
「今日中に鍋全部空けろ」
「あれ三食分でしょう? 無理だってば……」
「それでも食え」
「だから無理なの」
 麻衣子は泣く泣くかなり多めの食事をした。このままでは、不味いから食わないのかなんて言われてしまいそう。
 必死の思いで食い切ると、当然、腹ごなしをしたいと思う。
 そういえば、家事の仕方訊き損ねた。
 でも、家を見渡すとぴっかぴか。ちり一つ落ちていない。いくら麻衣子でも、こんな状況の床をもう一度拭くなんてどこのいじわる姑か、失礼だと知っている。
 ごみばこにはなにもないし、洗濯機にはなにもないし、物干竿すら見つからないし。
 散歩なんてする気にもならない。仕方なく、居間のソファへ。番組表を見て音楽番組を。聞きながらうとうとした。
 すると当然、目が覚める頃にはくちゅんと一発風邪を引く訳で。
 翌火曜、麻衣子は唐突に、東急ハンズに行きたいと思いついた。麻衣子は出不精で、平日の緊張から解放されたくて土日はぼーっとしていたが、それでも散歩とか、とにかく外出したいと思う時は当然ある。社会人になり、東京に出て、なんとか道を覚えて行ったあの店では、こまごまとしたものがいっぱい置いてあって、それを見て回るだけで楽しかった。おもちゃ箱みたいで。あそこを歩き回ると時間も結構経つし、自分としては「お出掛けした」気分に充分なれたから。
 さて出掛けよう。あのカードを持って、と。
 そこでふと考えた。あれ、お金がない。
 おばかな麻衣子、カードで電車にどう乗れるか知らなかった。あんな所へは電車で行くものだ、と思い込んでいて、タクシーで乗り付けるなんてなあ……
 とはいえ現金がない。訊いておけばよかったな。仕方がないから、そこらから紙を持って来て希望内容をメモして家を出た。
 藤村と上條の推察通り、政人がぽんと買ったマンションの警備は相当なものだ。輪姦騒ぎと迷子になられたことを教訓に、麻衣子が家を出たら警備の者に後を付けるようにしておいた。本当は、こんなことする気もなかったが、あの二つの件が起きてからは考えを改めた。 
 麻衣子は門の外でタクシーを拾ったという。さて、どこへ行くか。
「三十分休憩する。車を用意しろ」
 政人は社内の者に指示した。
 午後一時、麻衣子は目的地にたどり着く。やっぱりタクシーで移動というのはどうも慣れない。電車に乗りたかった。これ、出せばどこかで現金貰えないかな……
 犯罪です。
 ふらふら歩きながらぼけーっと見る。さして特に欲しいものがあるというわけでなく。
 どのくらい時間が経ったか。麻衣子は三階の端っこで、しゃがんで品物を眺めていた。あ、これかわいい。
 ぼーっと見ていたので、隣に夫が立たれても、最初は気付かなかった。
 政人はそんな麻衣子を眺めていた。あれもこれもと目をやって、どう見ても無防備無警戒。政人に言わせれば、今すぐ後ろからぶち込めと言っているようなもの。これでナンパされればさてどこに連れ込まれるやら……
 麻衣子はふと横を見た。纏う嵐に気付いたから。落ち着いた色のスラックス。スーツだ。長い脚のそれ、段々と上に視線を移す。
 どこから撮っても完璧な絵になる。もう分かっている、色気というものを。大人の男の色気。完全に虜になる、吸い込まれる。
 完璧な体躯。奇麗になでつけられた髪。整い過ぎて迫力あるマスク。
「政人……」
 麻衣子はその場にへたりこんだ。
 政人はそんな妻の脇の下に手をやると、麻衣子を立たせた。
「どれが欲しい」
「え……」
 政人は麻衣子ではなく商品を見る。
「どれが欲しい」
「えっと……」
 どうしてここにいるのとか、仕事はどうしたのとか、訊くことはいっぱいあるのに、一度に複数のことが出来ないおばかな麻衣子。
「あの。……どれが、っていうのはなくて、なんとなく……」
「ここへはよく来るのか」
「ううん。たまに」
「他に行きたい所は」
「えっと……」
 あることはあるのだが、なにせその場で思いつかないと言葉に出来ない。
「麻衣」
 こっちを見た。
 背の高い人。なにをやるにも迫力があって、あんなに激しくて。熱くて、力強くて。
 交わる視線。目でも愛し合って……
「飯は」
「ん、食べた」
「朝も昼もか」
「うん」
 ここで麻衣子、はっと気付く。
「あの、お仕事は……」
「休憩中だ」
 もちろん大嘘。今頃部下達はここへ来るまでの、さらには三十分の時間をやりくりするため各方面へ急いで調整中。
「あの……ね、政人」
「なんだ」
「早く戻って」
「時間ならまだある」
「うん。だから。そういう時は、早く戻った方がいいことあるよ」
 政人は麻衣子をじっと見つめた。
 社会人経験たった半年。能力なくてまぐろでドジでずぼらで。
 でも、今の言葉は、きちんとした社会人のそれだった。
「分かった、戻る。麻衣も帰れ」
「うん」
「どこかへ出掛けたい時は行き先をメモしろ。俺と一緒に」
 行こう、ってこと?
 でも……休みの日って、あの……してばっかりいるのでは……
「麻衣」
 早く帰れという、促しの言葉だった。
「う、うん」
 政人は知り合いのタクシー会社を呼び、知り合いの運転手に住所を告げ、麻衣子を乗せた。車が動くまで見守り、おえると踵を返して電話を取り出す。社用車を呼び寄せ、乗る。
 運転手は、直属ではないが政人の部下。当然切れ者、優秀で、将来有望な人物だった。彼は上條と藤村を恨んでいる。三度もあの執務室にとは。語学がどうという以前の問題で話にもならない平社員など。
「ご夫人を一人にしない方が……」
 政人はなにも答えなかった。
 欲しいものならいくらでもくれてやる。どんな贅沢暮らしでもさせてやる。なのに、恋した妻はとことん無欲だった。
 さて翌日。政人は時間の空いた午前五時に自宅へ寄った。ひとめ逢えば止まらないのでキッチンへ向かうことだけに集中して。
 と思っていたが、居間のテーブルの上の紙切れが視界に入った。なにせ政人は麻衣子とは違うっていうか雲泥の差で視野が広いので。
 鍛え抜かれた足取りでそこへ向かう。紙を拾って読んだ。
 実に拙い字だった。婚姻届に書かせた通り、まぎれもなく麻衣子のもの。よくこれで入社試験を通ったものだ。死ぬほどありがたく思っているが、うちの人事はなにをやっているのか。
 そこにはこう書かれてあった。
“お金をください”
 時間のない政人は、だっぷり六百秒立ち尽くした。
 政人とて人なので、学生時代受けた試験問題を一つもミスすることなく来たわけではない。だが、忘れるくらいな回数につきせいぜい一個という程度。難問と思ったものは一度もない。会社に入った後は全てパーフェクト、うぬぼれでなく自信がある、人後に落ちない。どんな案件でも難関と思ったことはなく、困難だと誰もが思うものほどやりがいがあって。
 そんな政人に、これほど理解不能な事態が起ころうとは。かつてあったか? いや、ない。またしてもお初な出来事に遭遇し。
 待て。これは一体なんだ。
 さらに九百秒くらい時間を経て、出た答えはこれだった。
 俺はそんなに薄給か。
 天より高いプライドが粉々になって砕け散ってぶっ飛ばされてどこかへ行った。
 麻衣に明細は見せた。細かい数字は覚えていなくとも桁数は確認したはずだ。まさか覚えていないとは言わせないが、忘れた? そうなのか?
 大金を使う性分ではないのに。たかが数百円でどうこう言うのに。
 麻衣の両親には「合わない」と言われた。認めたくはないし、口に出したら即離婚だろうが、そりゃあ合わない、なにより金銭感覚が。
 そう思っていたのに。
 こんな早朝でも、思わずカード会社に確認した。すると使用金額は一万円にも満たないと。
 全く。てんで。理解不能。
 今まで女にカードなど渡したことはなかった。当たり前だ、悪用されるだけだ。とにかく麻衣を見初めてからお初なことだらけだった。しかし、それでも恋以外難問と思ったことはなかったのに。
 茫然自失で調理した。
 麻衣子は朝の八時くらいに起きると、顔を洗って歯を磨き、着替えて携帯をぱかっと開いた。思った通りメールが入っていて、相手は夫。
“起きたら電話しろ”
 犬な妻はその場で掛けた。いい加減気付け。
「政人」
「麻衣。起きたか」
「うん。さっき」
「お前の荷物のある部屋へ行け」
 あれ? いつもだったらここで、食え、その後電話しろ、じゃないの?
 麻衣子は言われた通りに、とことこ部屋へ向かった。
「来たよ」
「たんすの、上から三番目の引き出しを開けろ」
「うん」
 でかいたんすだった。もちろん麻衣子が買ったものではない。
 言われた通りにしようとするが、重い。
「あ、あれ」
 服ってこんなに重かった?
「開けたか」
「えっと……」
 全部開け切れないので、途中で止めて中身を見た。
「……これ、なに」
「金」
 ……
「なに、これ」
「金」
 ……
 そこにはまごうかたなき日本銀行一万円券(今のはE券とかいうらしいです)があった。たんすの引き出しに隙間なく、新券でぴっちり、どーっぷり。
「あの……」
「欲しいと書いただろう」
 麻衣子は困った。正直忘れている。
「足らんか」
「あの……」
「なんだ」
「そう……書いたっけ」
 おいおい麻衣子、たった一日前、昨日の出来事だぞ。思い出せよ。
「金をくれと書かれてあった」
「えっと……」
 麻衣子はない頭で考えた。どこまでもおばか。
「ああ、そういえば」
「なんだ」
「電車に乗りたいの」
 なぜ。あんな、いつ痴漢に遭ってもおかしくなさそうなものに。
 政人は今度は心配性なるものとお初なご対面をした。
「だって、東急ハンズにタクシーっておかしいと思うし……あ、そういえば私のお財布のお金どこ?」
「没収した」
「えーーー!?」
「お前は俺の専業主婦だ。俺の金を使え」
「そんな……」
「足りなきゃいくらでも言え。飯を食ったら電話しろ」
 電話はそこでぶっつり切れた。声を聞きたいとか、後ろ髪を引かれる想いとか言ってるくせにこういう時はためらいのない男である。
 それにしても電車……
 政人は今度は放心という感情とお初なご対面をした。なんたる盲点(これもお初)なんたる迂闊(以下同文)思いつきもしなかった。しかし、よく考えりゃそういうこともあった。電車賃のたかだか数百円が欲しくて金をくれ……
 分かっていた。外車に乗せてもきゃーこれかっこいいとか。仕事姿を見せてもきゃーかっこいいとか。家に上げてもきゃーステキとか。そもそも逢っても感想なし。高いプライドな男心を満たしてくれる言葉はなにもくれず(注:あります、飯が美味いっていつも言ってるじゃん)張り切って初デートに連れて行けば目の前で吐かれ。
 認めたくはないが差があり過ぎる。なんとかしなければ……
 さて、麻衣子はというとびくつきながら飯を食っていた。そりゃそうだ、あれはどう見たってジャンボ宝くじの一等プラス前後賞以上の量である。数えたくもない。あんなの、あっただけで精神的に悪い。なにせ麻衣子はそういうのにからっきし弱い。
 小銭をくれと言っただけであの札束。差があり過ぎるなあ……
 夫婦仲良く同じ難問に直面していた。こういうところに差はないらしい。
 麻衣子はご飯をもぐもぐ食べおわると食器を片付け歯を磨き、電話した。
「政人。食べたよ。歯も磨いたし」
「ならいい」
「それでね、あの……」
「なんだ」
「お金……」
「足らんか」
「違う! あの……こわいから……持って帰って」
 いちいち比べる気はもうないが、政人の今までの派手な女性遍歴で、大金をくれと言われたことはあっても怖いから持って帰れと言われたことなど一度もない。
 これは考えを大幅に改めなければならない。
「分かった。ただし緊急事態に備えて一束は残しておく。いいな」
「う、うん」
 そりゃあれだけの量を見せられたら、百万円くらいどってことない。
 と、おばかな麻衣子ですら思えた。ああお金ってオソロシイ。
「麻衣。披露宴に招きたい友人知人の名を」
 休日に訊くんじゃなかったのかオイ。
 しかし政人はもう、部下に言われる以前に、麻衣子をふらふら一人で外に出す気はなくなった。すっぱりなくなった。あれでは男に付け狙われたが最後一発でやられる。オイオイ警備を付けたからよかったんじゃなかったの?
「あ、……そういえば」
 こうすれば、麻衣子は家の中で考えてくれるだろう。家事も忘れてくれるだろう。麻衣子の性分能力を思えば、近日中にリストが出来上がるはずはない。自分がいない間、余計なことは考えずにいてもらいたい。
 犬の麻衣子は夫の思惑にまんまとはめられ、昨日言われてのどのここまで出掛かったお出かけ先を思いつくことなく、暇であることは事実なので、さっそくリスト作りに取りかかった。
 まずは携帯をぱかっと見て、それを元にパソコンに向かい、エクセルで表を作る。なんぼおばかでも現代人、なんとあの麻衣子でもこれくらは出来るのだ。ああ驚いた。
 住所を登録していなかった友達もいるので、今が平日で相手はフツー勤務時間ということを延々気付かず電話する。
「あっこちゃん」
「麻衣子!? うわー久しぶり! どうしたの?」
「えっとね」
 麻衣子は拙く説明する。かくかくしかじか。
「え!? え!? けっこんーーー!?」
 さすがに泡は吹かれなかったが、麻衣子の性分能力を知っている友達である、そりゃあ激驚くわな。
 どうしてとか、なんでとか、いろいろやりとりのあった後。
「そ、そんなにカッコいいなら写メちょうだい! 見たい〜〜!!」
 当たり前の反応である。
 麻衣子はなるほどなと思った。なにせあれだけ極上迫力色男なので、どこから撮っても絵になる。そういえば携帯の待ち受け画面にしようかな。
 さっそく政人にメールした。
“友達が欲しいと言っているので、政人の写真を下さい”
 政人はいささかほっとした。それから、テキトーに自分の写真をケータイで。政人はナルではないので決めポーズなど取らず、しかし友人にというなら仏頂面にはならないように。
 さっそく添付されたメールを開くと、そこにはどんな芸能雑誌にも載っていないような超絶美形色男の素敵画像が。
 麻衣子はうっとり見とれてため息をついた。よかった見初められて。心底そう思った。
 犬の麻衣子はさっそくそれを友人に。するとどうなるかというと……
 政人は昼、妻に電話した。しかし、話し中。
 こうなりゃ固定電話を引くか。麻衣の性分能力を思えば、多機能な電話は必要ない。そういややりまくった月曜はさっぱり起きちゃくれないので(お前のせい)けたたましい目覚ましのひとつも買っておくか。
 その頃麻衣子は困っていた。ひっきりなしに電話が掛かって来て、その内容がみんな同じだったからだ。どんなものかというと、
「亭主に会わせろ!」
 だった。そんなこと言われたって政人は忙しいし……
 あの写真は友人知人連中にくまなく回されていた。デジタルである、ピンぼけもせず鮮明に。友人知人は男も女も麻衣子がバージンでキスもまだで異性とお付き合いもまだってことをよくよく知っているので、ちょっと会社に勤めただけであーんなのをとっ掴まえるなんて。
 麻衣子はしかたなく返事した。そういえば政人に、披露宴前には実家に戻るよう言われているので、そこでみんなで飲みましょうと。亭主元気で留守がいい、ではなくて、とにかく忙しいので亭主を同席は出来ないが、みんな招くから披露宴で実物を見てチョーダイよ、と。
 結局、麻衣子が政人に電話出来たのは午後三時だった。質問は当然いつもの飯。いつ食ったのか。ナニィ、まだァ? とは言われなかったが、今日はやられまくった翌日でもないのにまた時間を忘れて。
「……ごめんなさい。もうしない……」
 政人はすでに、この言葉に疑問を抱いていた。どうも恋した妻はいろいろ自覚がなさ過ぎる。厳しく言えば無責任。教えるべきは政人だが、しかし上司に詰問されている、なんて思って欲しくないし。また上條を使うことも考えたがワンパだし、余計なことを吹き込まれて欲しくないし。
 何度も思うがよくこれで、会社をクビにならなかったものだ。
 政人は麻衣子から、かくかくしかじか実家に戻った時みんなで飲もうと約束した、いい? と言われた。
 それは別に構わない。友人知人なら麻衣子を後ろから一発やろうとは思わないだろうし(ヲ)妊娠後は酒を飲ませたくない。外に出す気はないが気詰まりな思いをさせたくない。その時期なら直後海外へ夜逃げ、違った高飛び、でもなかった日本脱出して友人知人と話す機会がなくなるので、そのくらいはいいと思う。もちろん警備の者は回しておく。
 麻衣子は翌日、気持ちよく目が覚めると、またしても唐突にお出かけ先を思いついた。
 花屋に行きたい。
 あの空気が好きだった。充たされるにおい。とりどりの色、奇麗な花々。自分のお金で買えはしないが、社会人時代先輩に付き合わされて花屋に入ったことがある。それで気に入った。
 政人に怒られたくないので、これまた行き先をメモして。