7

 結局麻衣子は翌日も空腹で目が覚めた。月曜は一食だけ。体内時計も睡眠時間も完全に狂って。
 火曜、今日中にこの食事を食べ切らなければならない。悪くなる。それはしたくなかった。
 時間は朝七時だった。携帯が鳴る。とことこ駆け寄って待ち受け画面を見ると、今村政人。
「はい、麻衣子です」
「麻衣。起こしたか」
 じゅわっと濡れて熱くなった。もう機械越しの声だけで。
 そう想っているのは、麻衣子だけではなかった。
「さっき起きたの」
「飯を作りに今から」
「大丈夫、あるから」
「どのくらい」
「えっと。……二回分……」
 電話の向こうが黙った。
 基本的に、政人の返答はいつもすぱすぱ返って来る。迷うということはないらしい。即断実行が政人の基本である。
「そうか」
「うん」
「散歩は」
「えっと……しないと思う」
 とてもそんな気分では。
「どこに行ってもいいが、この間持たせたカードは忘れるな。戻りたいと思った所でタクシーを拾え。家の住所はメールする」
 あの名刺を麻衣子は忘れたか無くしただろうと思う。そんな細かいこと、ねちねち言いたくなかった。
「うん。携帯、忘れない」
「そうか」
 これだって本当は、ちゃんと注意しようかと思ってはいるのだ。だが麻衣子は会社で、自分の行いを逐一糺されることに神経過敏になっていた。また叱られる、また叱られる、なにをやっても叱られる、もういやと思っていることを知っている。だから、そんなことはしたくない。
 少しずつ教えればいい。あれもこれも同時になんて麻衣子には無理だ。これぞ段階を踏んで。今度こそ。
 麻衣子は朝食を摂ると、あとはどうしようかと思った。
 会社に行かなくなってから一週間以上が経つ。まるで夢のような熱く激しい日々。政人の意一つで崩れる砂上の楼閣。
「だいすき……まさと……」
 呟いた。聞こえてくれればいい。
 空腹で起きた。時間を見ると午後二時。
「くちゅん」
 おばかな麻衣子、居間のソファで苦しい体勢でうたた寝していた。
 風邪引いちゃったかな。体温計、風邪薬。
 荷物をひっくり返して目的の物を取り出す。まずは体温計。計ると、
「三十六点九分……」
 微熱である。薬を飲まなければ。お風呂は止めよう、大人しく寝ていよう。
 残りのご飯を食べて薬を飲む。寝室へ向かった。
 何も知らない政人は午後五時、家に寄った。食事をつくる時間しかなかった。
 ひとめ逢いたい。だがそれは欲望の入り口、出口はない。呼ばせて、呼んでくれるあの愛らしい唇を奪うようにキスを。甘い歯をなぞり、なまめかしい舌を自分に絡めて吸い付くし、唾液を飲ませて。しゃぶって欲しい。精液を飲んで欲しい。初めての時、まさか麻衣があれほど出社をいやがっていたとは知らず付けた首筋の刻印。本当は、月曜朝にそのまま出社させ、所有されたのだと見せつけるつもりでいた。そこに舌を這わせ、吸う。決して消しはしない。鎖骨を舐め、やわらかい小振りな乳房を揉んで。つんと勃つ乳首をいじってむしゃぶり。真っ白な、なめらかな腹部を堪能して。恥じらう太ももを大きく開かせ、しげみの奥にある花びらを舐めたくる。麻衣の声はここでひときわ大きくなる。望み通り舌を差し挿れる。しとど垂れる愛液をべろべろと。さらに我ながら長い指で麻衣を犯す。まずは一本、麻衣の膣は貪欲だ。とても足りない。二本……とりあえずここで止めて。親指はクリトリスをいじる。襞に絡み付く中指を、叶う限り奥へ。分かっている、麻衣は足りないと想っている。望み通りに。抜くと、足りないと全身で言って。脚を肩に抱え、麻衣のもっともいやらしい穴を天に向かせ。麻衣は体を二つに折り、膝が肩の上につくほどに。自分はのしかかってあとは欲情のまま。まさに犯す正常位……
 ここまで想いを馳せて、止めた。時間がない。調理の時間しかない。ひとめ逢ったら止まらない。寝室にいるのは気配で分かる、顔は見ないようにした。
 翌朝麻衣子が起きたのは、空腹でではなかった。
「……あ!」
 体の中をおりるものが、いつものそれではなかった。逢ったあの日から、麻衣子の膣から独特のにおいをした白濁した液がおりていた。それではなかった。
「どうしよう……生理……」
 ショーツを見ると見事に真っ赤。さらに腰を浮かしてシーツを見るとそこにまで。
「やだ……」
 怒られる。どうしよう。
 とにかく処置しなければ。ベッドを出て荷物の置いてある部屋へ。一度外した血だらけのショーツとズボンをまた穿くなんて出来ない、脱いでそれを持って行った。歩いた所に血が点々と垂れる。酸素を多く含んだ赤黒いそれ。
 荷物をひっくり返すと、ナプキンは一つしかなかった。羽根つきですらない最も軽い昼用。今の血量が一番多いのに、これではだめだ。
 でも仕方がない、ないよりはまし。生理用ショーツにあてて穿く。すぐ買わなきゃ。
 あのカード、どこだっけ。そう思って振り向くと、
「わ!」
 歩いた所に血が点々と。こんなの、そのままになんかして置けない。
「どうしよう、どうしよう……」
 部屋を見渡すと、隅に掃除用具が入っているとおぼしきロッカーがある。そこまで行った。扉を開けて、モップを取り出す。拭かなきゃ。
 持って来て、せっせと床を拭こうとしたら、
「あれ?」
 足がもつれて転んでしまった。したたか頭を床に打ち付けて……
 政人は自分で運転するのを好むが、職務中は移動時でも仕事をする為運転手付きの社用車を使う。たまたま自宅の近くを通りがかったから、追加の書類があると言い訳して家に寄らせた。
 時間は午後一時。麻衣は昼食をとっただろうか。
 月曜は一食だけだったという。全ては自分のドス黒い欲望のせい。ぶくぶく太らせるとまでは言わないが、あのガリガリで骨の浮く体はなんとかしなければ。
 電話をするが、出ない。寝てるか……
 玄関の扉を開けると、政人の地獄が始まった。
 まず目に飛び込んで来たのはフローリングの床中に点在する、寝室から続く血。それらが所々引きずられた跡。
 その中心に位置するものは
 倒れて
 真っ青になって
 ぐったりとして
 体の真ん中には 脚の付け根 中心からは
 膣からショーツが真っ赤に染まって
 ほっそりとした太ももも真っ赤 流れている 幾筋も
 恋する人を受け止める床には 円を描くような広い血溜まり
 この家に
 複数の
 卑下た男達が
 押し入って
 麻衣を
「ん……ん」
 目が覚めた時、そこはいわゆる知らない天井だった。
 ここ、どこ……
「気分はどうですか?」
 麻衣子に声を掛けたのは、知らない女の人だった。にっこり笑っている。
「ここは……?」
「病院です。私は看護婦です」
 どうして……
「貴女、生理ですね?」
 そ、そういえば。麻衣子は恥ずかしくなってうつむいた。血をぱんつとかシーツとかに残すなんて女の子失格だ。
「大丈夫です、私が処置して置きました。あと、ひょっとしたら転んじゃいました? 頭、打ってません?」
「あ……」
 そういえばそうだ。
「はい、ちょっと……っていうか、かなり。うーん、痛い」
 頭をなでさすると、たんこぶが出来ていた。我ながらなんてドジ。
「一応CT撮っときました。異常はなかったですよ。たんこぶが引けば大丈夫でしょう。念のため、家に帰ったらしばらく安静にして下さいね」
「はい」
「じゃ、これ。生理用品、鎮痛剤、貴女のバッグ。あと携帯電話です。院内は使用禁止なので、病院を出たら電源を入れて下さいね」
「はい」
 服を着替えて個室を出る。ああ、鈍痛がする……家に帰ったら薬飲まなきゃ。
 バッグから財布を取り出すと、札も小銭もすっからかん。一つだけ、あのカードだけがあった。いつの間に?
 よく分からないまま病院を出る。大きな病院だった。出入り口にはタクシーが群れをなして停まっていた。先頭の車に乗る。住所を告げるため携帯の電源を。メールを探して、タクシーの運転手に言った。
 ぼけっと乗っていると、携帯に着信音が鳴る。これはメールだ。
 差出人は今村政人、内容は、
“家に帰ったら電話しろ”
 だった。いつものだ。
 そういえば私、どうして病院にいたんだろ。訊かなきゃ。
 麻衣子を送り届けた看護婦は、あの時大仕事を終えていた。麻衣子の口から紡がれる事実を直接その通りを伝えるため、鬼に。
 貴女の夫は鬼でした
 夥しい 幾人をも斬った鬼でした
 返り血だらけの鬼でした
「ただーいまー……あれ?」
 そういえば麻衣子は、家の玄関のドアの開け方を知らなかった。鍵を持っていない。
「えっと」
 政人に電話する。
「政人」
「麻衣。帰ったか」
 ああどうか
 こんな心ないこと言わせないで
「うん、あのね。玄関の前。私、鍵持ってないの」
「鍵ではなく、暗証番号で」
 そういえば、よく見ると鍵穴はなかった。言われた通り操作すると、扉は開いた。
 室内に入ると、そこはいつもの空間だった。ごみどころかちり一つ落ちていない。床のあの血もなかった。
「麻衣。飯は」
「あ……そういえば」
 言われてお腹がぐーと鳴る。
「き。……聞こえた?」
「聞こえた」
 恥ずかしい……
「飯はつくっておいた。温めて食え」
「お仕事は……」
「さぼっていない。休憩時間に行った」
「そう?」
 でも休憩時間をつぶしたってことに。
「政人は? 食べた?」
「食った。体が資本だ、健康管理には充分気をつけている」
 よかった。
「じゃあ、いい」
「麻衣もだ。一日三食必ず食え」
「だって……」
「やられまくって食えなかった、か」
「……そうだもん」
「これからもそうだ」
「……もう」
「だが俺のいない時は必ず食え」
「あの……つい寝ちゃって……」
「飯の時間に電話する。携帯はいつも持っていろ」
「そんなのだめ。仕事して」
「お前がそばにいるのなら」
「ずっといるもん」
 お前は永久に
 俺の気持ちを解らない
 そばにいて
 そばにいて
 どうか どうか
「上條、内線だー」
 政人、藤村、上條のいる会社のとあるフロアで、上條のデスクの電話が鳴った。
 全く、結構集中していたのに。
 仕方がない。キーボードから指を離して電話に出た。
「はい、企画二課の上條です」
「麻衣に電話しろ」
 そこで切れた。
「ちょっとぉ……」
 あの声、あの威圧感、あの言い方。
「勘弁してよね……」
 なにが麻衣よ。愛称かよ。
 その時犬の麻衣子は律儀に携帯を握りしめていた。そこまでやらんでよろしい。
 果たして電話は鳴る。待ち受け画面には上條。
「はい、麻衣子です」
「中川さん、元気?」
「今村です」
「は?」
「私、今村麻衣子です」
「いやその……それは、分かってるんだけど」
「ちゃんと籍入れました」
「は」
「三ヶ月後に結婚式するんです。あ、出席して下さいね。そうだ、住所教えて下さい、招待状出しますから」
 ……なんだ単なるのろけじゃん。こんなの聞かせるために電話しろってか? ジョーダンじゃない。
 とは思ったものの。
 なにかおかしい。引っかかる。
 麻衣子の様子。なにひとつ、こっちが電話する必要はない。
 自分の、あの男にとっての存在意義。それはひとえに麻衣子のために動けということ。
 招待状を出させたかった? まさか、自分の住所なんかあの男、とっくに知っているじゃないか。今麻衣子が住所の話をしたのは偶然、単なる話の成り行き。だからそれが目的ではない。
 だったらなに?
 ……おかしい……
 感じ取れ。
「中川さん……」
「今村です!」
「まあいいじゃない。どーもいまむらなんつーと、あのおエライさんを呼び捨てにしているような気がしてならないのよ」
「じゃあ麻衣子でいいです」
 ご冗談を。たとえこっちが女とはいえ、嫉妬で殺されそうですわ?
「それはともかく……」
「よくないです!」
「ちょっと会わない? ずっと家にいて退屈でしょ?」
「そんなことないですよ。さっき病院へ行って来ましたし」
「……は?」
 これだ!
「どうして病院に? どこか悪いの?」
「ええっと。生理で」
「え、そんなに重いの!?」
「は?」
 ……また話が噛み合ない……
「えっと……私、生理結構不順なんです」
 ってことは妊娠なしか。
「いつ来るか分かんないし。何日続くか分かんないし」
 これで、なんで病院?
「そう……ところで、どうして病院へ行ったの?」
「あれ? そういえばいつの間に……」
 ……また話が分からない……
「ま。まあとにかく、会いましょうよ。現状報告ってことで」
「はい、分かりました」
 なんて素直な。ちょっとは疑うってこと、知ってもいいんじゃない? もう女なんでしょ?
「じゃあ喫茶井上で」
 上條はフロアを出て電話していた。職場に戻ると直属の上司から、すぐに早退しろと言われた。
「え? どうしてですか?」
「知らん、上の命令だ。理由なしだぞ、こっちが訊きたい。お前なにをした」
 けっ……相変わらず準備のおよろしいこと。
「お前、今村課長の執務室に三度も行ったそうだな」
 えーえー行きましたよ。
「藤村のバカも一緒ですよ」
「言っとくが、悪い噂が立っている。二つ、一つはお前は課長の愛人だ」
「ご冗談を」
「で済むと思っているのか? 夜道どころか社内では一人にならない方がいいぞ、秘書課や受付の美女群だけじゃない、実質上課長の部下四桁がお前を恨んでいる。あの執務室に入っていいのはどれだけ限られた人間だけだと思っている?」
「もう一つは?」
「なんの極秘プロジェクトに参加している? この早退はその行動中でか」
「知っているんでしょう、あの執務室に入れる人間がどれだけ優秀でなければならないかを。あたし達は偶然ランダムに呼ばれて、わずか数回単純作業をさせられただけです。そんなに優秀なら、あたし今頃あなたの上司です」
 上司は上條をにらみつけた。当然である。
 だが上條はなんら思うことはなかった。あの男を知ったら、はっきり言って他なんて虫けらだ。
「呼ばれてももう行かない方がいいぞ。実際、この間お前の言う“ランダムな”女が他にもいて、執務室に一度行ったそうだが、直後に退職、二度と出社しなかった。噂じゃ社内の誰かにくびり殺されたそうだ。脅しじゃないぞ。もう行け」
 フロアを出ると、そこには藤村がいた。
「よう今村夫人」
「本妻に会って来るわ」
「そうか」
 藤村は仕事中だというのに、ビルを出る上條に付いて行った。
「分かっていると思うが、社内では一人になるな。女のお前の方が危険だ」
「分かっているわ。後で連絡する」
 なにも知らないのんきな麻衣子は、喫茶井上に到着していた。
「らっしゃい」
 あのマスターだ。にっこり笑っておじぎして、空いた席に座る。
 上條さん、まだかな。
 その上條が、常に周囲に気を配りながらここへ向かっていることなど知りもせず。
 はたして上條はやって来る。
「上條さん、こっちです!」
 まぶしい笑顔を見せる麻衣子は、初めて会った真っ青な時とは比べ物にならないほど輝いていた。
 これで、なぜ病院……
「久しぶり。元気そうね」
「はい! 幸せです!」
 ……全く分からない……
 マスターに飲み物を注文して、来たものを飲んで。とりあえず落ち着く。さて、どう切り出したものか。
「ところで……」
 素直な麻衣子に手練手管は必要ない。心の負担にならないようにだけ心がけて。
「そんなに幸せで、どうして病院に? どこか悪いの?」
「え? あ、あの……えっと、よく分からないんです」
「じゃあ、病院に行く前になにがあったか、教えてくれる?」
「えっと……起きたら、生理になってたんです」
「ふんふん」
「急いでナプキンを探したら、小さいの一個しかなくて」
「ふんふん」
「ふと後ろを見たら、私の生理の血が点々と床に落ちてたんです。なんか、見ようによってはおっかなかったです」
「それで?」
「こんなの見られたら政人に怒られると思って、拭こうと思ってモップを出したら、モップの毛と血がからんでつんのめって、転んじゃったんです」
「それで?」
「頭を思いっきりぶつけちゃって。痛かった」
「じゃあ、それで気を失ったってこと?」
「はい」
「じゃあ、あとは目が覚めた後自力で病院へ?」
「え? ……いいえ、気付いたら病院で……」
「……気を失って、病院で目が覚めるまでの所要時間は?」
「えっと……十時に起きて、三時頃……」
「……どこの病院か、分かる?」
「えっと……」
 その後とりとめのない話をした後、二人は別れた。上條は喫茶店にいたまま、藤村にメールした。
“江口総合病院の婦長の番号、あんたなら知ってるでしょ”
 すぐに番号だけの折り返しメールがやって来る。
「……初めまして、上條と申します。今村課長の部下です」
 電話の向こうの、息をのむ雰囲気を確実に感じた。
「どう脅されて、今村夫人の言葉をそのまま課長に伝えました?」
「脅し?」
「盗聴マイクで直ですか?」
「脅し? そう、あなた……あれを、脅しなどと言うの?」
 ひとしきりの電話の後、上條は藤村を呼び出した。
「いつもの居酒屋で、個室」
「了解」
 夜七時、上條と藤村は都心のある居酒屋にいた。酒がなければ出来ない話だった。
「血が床中に点々と。そんな中で倒れている中川。直後に発見はしていない。ナプキンの小ささ、一日目ということを考慮して、まず間違いなく中川の股間は生理の血が漏れて流血、血だらけ、噴きだまり。
 不定期な生理。だったらいくら課長といえど、いきなりの場面であれが生理の血とは考えない。
 輪姦されたと思ったな」
「ええ」
 想像に難くない。あの政人が麻衣子を発見した時の衝撃、心の闇。
「中川の様子から察するに、課長に問い詰められたり、当たり散らされたりした形跡はないんだな」
「全くないわ。その代わり犠牲者は婦長。五十代の人があんなに怯えて……」
「課長が俺達と最初に会話した時、俺に、君はだめだ会ったこともないなら、って言ったこと覚えているか」
「ええ、よく」
「初対面だろうが面識あろうが関係ねえ、自分以外の男と話をさせたくなかった。会わせたくなかった。もちろん、自宅に上がり込んでなど欲しくなかった。
 っつー意味だった。分かるな」
「ええ」
 それなのにあの場面。おそらく課長の家とやらの警備はそりゃすごいものだろう。それを突破された、しかも複数に。
 そんな凄惨な現場を目にして、よく唯一の当事者である麻衣子に事情を問い質さなかったものだ。おそらくあの様子では、政人は麻衣子になに一つ説明していない。
「中川、処女だったんだろ」
「ええ。多分キスもまだよ。さらに言えば誰かと付き合った様子もないわ」
「男として言わせれば、二十二の女がなんの経験もないなんて、さすがに思っていなかっただろうな。だが会って、その日にやって知った時。
 多分、初めて独占欲ってもの、沸いて出て来たんじゃねえ?」
「でしょうね」
「今頃、持て余しているだろうな。よく分かるよ」
 あの逞しい体の内の激しい業火を
 お願いだから 麻衣子に向けないで
「それで電話しろ、か」
「今回は、中川さんのためじゃなく、自分のために電話しろって言ったんじゃないかしら」
「それもあっただろうな」
 二人は、いや政人も、まさかあんな事件の直前の麻衣子が風邪を引いていたなど考慮出来るはずもなかった。もし出来ていたら。
 その頃、麻衣子は今村家に戻っていた。政人に事情を訊かなければならないことなどころっと忘れて薬を飲む。この鈍痛をどうにかしなければ。
 ご飯を食べて風呂へ。湯船に血を浮かせられるわけがなく、入らずシャワーだけ。あとは貰った夜用ナプキンをしっかり装着して眠った。
 安静に、それだけは覚えていた。これなら自信がある。生理中でもあった、動かずじっとしていよう。そう、今の、これからの自分はずっとそれが出来るのだから。
 その時の政人というと、たとえどれだけの欲望を抱えているにせよ、今の心境で麻衣子に逢って、セックスしようとは思わなかった。
 ただ、表面的にはそうなのであって、心は違った。消えない業火。地獄を垣間見、持って来てしまったおぞましい炎。
 麻衣子は生理中。あんな血量を流すとは。知識としては分かっていたし、はっきり言えばそんな女を何度も抱いたことがある。知ったことではなかった、なにせ相手が望むのだ。
 だがまさかそれを麻衣子になど。こんな炎を抱えても、生涯消せなくとも、苦しんでいるであろう麻衣子のそばにいてやりたかった。
 今の麻衣子は安静が必要。だがひとめ逢えば、どれだけ理屈をこねてももう……だったら逢うべきでない? 恋する妻が苦しんでいると分かって、そばにいてもやれないのか?
 だから上條に電話した。
 麻衣子は自分の健康管理が全く出来ない。もちろんやりまくって食わせない政人が悪いが、逢う前からだった。電話して、叩き起こしても食わせなければ。基本的には誰も入れない専用執務室にいればこそ出来る頻繁な私用電話。掛けた。
「麻衣」
「政人」
 濡れるのは男だって同じこと。
「いつ起きた」
「さっき」
「気分は」
「うん……」
 打った頭は痛いか。生理痛はどうだ。
 訊きたかった。だがそうすると、もしかしたら全てを話さなくてはならない。麻衣子の性分能力からして、まさか自分が聖域を輪姦されたと思い込んだ、とは推察出来ないだろうが、話の成り行き上、ひょっとしたら問い詰め話になってしまうかもしれない。麻衣子はそれを最も嫌う。クビにした麻衣子の最初の上司など、二度と思い起こさせる気はなかった。
「飯は」
「これから」
「今すぐ食え。その後電話しろ」
 拙く食べているであろう麻衣。こぼしたりはしていないだろうか。このドス黒い欲望さえなければ。この炎さえ消えてくれれば。
 どちらも無理だった。
 仕事をした。麻衣子は政人に期待している。職務内容などさっぱり知らなくとも、仕事が出来る人間に憧れていることを知っている。望みは全て叶えてやりたかった。
 ほどなく電話が鳴る。
「政人。食べたよ。歯も磨いたし」
 ならいい。
 まさか吐いていたとは知らず家に初めて上げたあの日の夕飯は、細身の麻衣子に合わせて少なめに出した。だが抱いて、実際この目であばらが浮いているのを確認した後の朝食からは多めに出した。全く気付かず食っていた麻衣子。
 だから、この時気付いてやればよかったのに。
「散歩は」
 しないだろう、いや、するなと思いながら訊いた。
「ううん、しない」
 よかった。すると言ったら監禁した。
 ……いかん。聖域にきゅうくつな思いなどさせるものか。
 とはいえ麻衣の性分能力を思うと……たった半年とはいえよく社会人をやって来られたものだ。あれでどうやって一人で生活出来た? 安物の総菜に頼っていたと分かった時、それであばらが浮いたのかと分かった時、気付けばよかったのに。
 麻衣子は政人が定時に直帰すれば心配する。
 だが、理屈も炎もどうでもいい、ひとめ逢いたかった。
 矛盾しているな……
「麻衣。金曜五時半に帰る。待っていろ」
「もう。だめだってば」
「さぼりはしない。きちんとおわらせる」
「……もう」
 お前の夫はそんなに無能じゃないぞ。
 と言いたかったが、ごめんね私は無能で、なんて欠片も言わせたくなくて飲み込んだ。
 金曜になら、鈍痛も少しは治まっているだろう。絶対に犯ってはならない。優しく抱きしめて。いやがられなければ腹をさすってやって。
 そういえば、ピロートークを全くしてやれていない。これを嫌う女などいないのに。腕枕をしてやって、たわいもないことをあの拙い口から言わせて。ゆっくりお互いを知り合って。
 炎も欲望も抑え込め。なんのために二十八年間生きて来た? 今までくぐった修羅場の数々はなんのためにある?