6

 玄関が開いた。政人だ。駆け寄って呼ぶと、大人のキスが来た。
「風呂は」
「あ……まだ」
 そういえばあのお風呂のお湯の張り方を知らない。
「あの……お風呂のお湯、どうやって張るの?」
「湯ならいつも張ってある」
「……そうなの?」
 洗わなくていいのかな。落とさなくていいのかな。
「そういうのもある」
 そうなのか。
「足、痛むな」
 と言うが早いか、あの喫茶店でされたような抱え方をされる。耳元で、想わずすきと囁いた。とっくに犬。
 居間のソファに恭しく、優しくおろされると、靴下を脱がされた。そして、
「……ア!」
 足の指をしゃぶられた。
「き、きたないから……」
 だがもうその次の言葉は言えなかった。その熱い舌遣い、まさに愛撫。麻衣子は思わず目をつむった。自然、背が弓なりになる。体のど真ん中がじくじくする。声なんかいつの間にか出ていた、いつものこと。
 政人はじっとその声を聞いていた。女の嬌声などいつから一体どれだけ聞いたか。だが政人は、ああ感じているな、だったら挿れるか。その程度にしか思わなかった。
 麻衣子のこの声を、この声を、ずっと聞きたかった。逢ったその日にものにする気はなかったなど大嘘だ。恋をしたと自覚したあの時からもう既に、頭の中で、妄想の中で、何度も麻衣子を辱めた。いやらしく、汚らしく、何度も穢した。それがあの日現実になった、それだけだ。
 麻衣子の声がひときわ高まって止まった。いったらしい。飽き足らず両足をなめしゃぶり、よくマッサージして薬を塗り包帯を巻いた。キッチンへ行き、夕飯を。
 政人は悪友に料理を習った。実に腕の立つ男で、政人の貪欲な向学心をもってさえ、全く敵わない。向こうは三十前の同い年なのに御前料理の声すらかかる極めつけのプロ。対抗したくて調理師免許も取ったが、背中すら見えなかった。
 料理のコツはなんだ、そう訊いた。あいじょー、そうマイペースに答えられた。今なら分かる、なるほどなと。聖域のいる男に敵う訳がない。
 麻衣子は細い。あんな食生活をすれば当然、間違いなく栄養配分が狂っている。分かっていたのに。聖域にはなにもさせるなと教えられて来たのに、使用人にすら会わせたくなかった。どんなふうに生活していたのか見てみたくて、一人暮らしの女だから多少は出来るだろうとたかをくくってこの有様。
 恋がここまで自分を狂わせるものとは知らなかった。男のドス黒い本能に従ったら順番まで狂った。それで目の前で吐かれ。あの時は正真正銘心臓が停まった。言われたのに、手順を踏めと。分かっていたのに、世慣れていないことなど。さりげなく知り合い、優しくリードして、段階を経て、時間をかけて、お互いを分かり合い、向こうから好きと言わせて、自分を求めさせて、何日も焦らして。
 ……無理だ。
 夕飯が出来た。
 その頃麻衣子は緩慢に目覚めていた。体が、体と切り離せない心が政人を求めている。とても失えない。砂上の楼閣にいる、それでもいい。
 キッチンへ向かおうとしたら、足がへんだった。
「あ、あれ」
 包帯、ぐるぐる巻き。これでは歩けない。
「歩くな。そこにいろ」
 政人がお盆に夕飯を乗せてやって来た。
「腹が減ったな」
「ううん。政人こそ」
「お前を食いたい」
「あの……」
 麻衣子は耳まで真っ赤になって下を向いた。食う、その言葉はもう知っている。
「なんだ」
「い、いつも……食べられてるし……」
 知らないだろう、あの日既に食われていたことに。
「お前に食われたい」
「?」
 麻衣子はこの言葉の意味は知らない。
 見初めたその日から、政人は派手な女性関係をすっぱり捨てた。元々個々人に興味はなかった。今村の男は全員性欲が強い。溜まったから複数に処理させていただけだ。
 あの日からもっと溜まった。あの日から逢った前日まで自分で慰めた。
「食え。冷める」
 麻衣子は食い方も眠り方も拙い。食う方は、いつこぼすか期待している。こぼしたら拾って目の前で食ってやろうと思っている。眠る方は、まさかがーぴーいびきをかかないだけで、寝相はよくないし、毎回よだれをだらしなく垂らしている。それを舐めとるのがとても楽しみな日課だ。美味しくてたまらない。
 食事をおえると食器を洗うと麻衣子が言って来る。もうそんなことをさせる気はない、早く麻衣子を食いたかった。後にしろと言って抱き上げる。横抱きして、恥じらう麻衣子を見るのもいいが、すきと耳元で囁かれることを知ったら、もうそれなしではいられなかった。
 初めてすきと言われた時の、あの狂喜。
 後から思えばよくよく分かるが、麻衣子は自分で判断を下せない。その麻衣子が自分の意志で言った。おそらく誰にも教わらず。これは願望で、多分誰にも言ったことがなく。
 もっとも、誰かに言っていたら。そう思っただけでもっと、妄想の中の麻衣子はひしゃげたように政人に犯された。
 バスルームの藤の椅子に座って麻衣子を膝に乗せる。歯磨きを。
「むが」
 またなにかを言っている。こんなところも、たまらなく愛しい。
 今の麻衣子は足の踏ん張りが効かないから、立たせて背後から尻を突き上げさせ犯すのは無理。明日には包帯を解かなくてはならない、誰が怪我した愛娘を連れて来た初見の男に結婚など許すものか。
 今日中に治さなくてはならない。だったら体位は限られる。
 ……無理はさせられない。
 出来るか?
 無駄な問いだった。ドス黒い男の本能のままに、今晩も。ずっと愛を伝え名前を呼び、呼ばれ、愛を囁かれながら。
 翌朝、ぐったりした麻衣子を無理矢理叩き起こし、無理矢理飯を食わせ、包帯を解き風呂に入れた。
 俺はこんなに余裕のない人間だったか。どこの世の中に、こんな状態の娘を連れた初見の男に結婚の許可を出す親がいる。それを分かって、どうして止まらない。この欲望は、どこまで強くなる。
 休ませるのは、車内でしかなかった。
 政人は麻衣子が、どうして自分をと思っているのを知っている。だがそんなもの、こっちが訊きたい。どうしてここまで自分を狂わせるのか。訳を知りたい。ドジ、世間知らず、処女、およそ麻衣子と同じ条件の女など数え切れないほど抱いて来た。誰にでも愛を囁いた。相手はいつも、誰でもそうだがそうするとうっとりして、自らご開帳だ。全員自ら己を咥え出す。全く全員単なる性欲処理対象者だった。
 それなのになぜ。
 政人は恋する者の両親に初めて会うのだから、張り切ってスーツを新調、しようと思ったが止めた。この娘にしてあの親あり。卒倒されて終わりだ。ごく普通の私服にした。麻衣子には、イメージそのままの清らかなワンピースを着せた。また吐かれないかヒヤヒヤした。
 あの日から、デートという単語を言えていない。
 道中、麻衣子を見るとまたよだれ。美味しそうでこっちも出て来る。熟睡している、ほっとした。
 車で片道二時間の行程。シートを倒し、毛布を掛けて。こんな状態の麻衣子を、それでも食いたい。
 午前十一時半、予定通り、実家の近くまで着く。車中で手弁当を。車を停めて、いつもの通りよだれを舌で舐めたくって、それからキスをした。
「ん……」
 何度キスしても、麻衣子は下手だ。向学心は全くない。されるがまま。いわゆるまぐろ、せいぜい腰に腕を回すだけ。
 だがそれが、あの麻衣子の、全てを総動員した、心づくしのお誘いだと、よく分かっている。されたが最後、二度と腕を解けない。麻衣子はよくいくので、そこで残念ながら解かれるだけ。それを合図にいつも体位を変えていた、決して抜かず。
 ……いかん。食いたくなった。
 今村の男は自制が得意だ。両親に会う直前に勃つなどしない。
 まだまだ眠そうな麻衣子。加虐心をそそられる。両親に会い、なんとしても説得し、すぐに発つ。車中でしか休みは取らせない。役所で籍を入れ、あとはあの、見初めた次の日ぽんと買った家で。
「お弁当? わあ、久しぶり」
 弾けるような笑顔を見て、政人は狂った。いつものこと。
 午後一時、定刻に中川家へ。あの電話から察するに、さぞ中川の二人はびくびくしながら政人を待っているだろう。ここは麻衣子に言われた通り、多少は言いようを考えて。
「初めまして、今村政人と申します。このたびは急で申し訳ありません。お邪魔します」
「あの、ただいま、お父さん、お母さん」
 中川の二人は、案の定目を点にし、口をぽっかーんと開けて政人を見ていた。
 そうだろうと麻衣子は思った。この外見、この迫力、この威圧。これであんなスーツなど着られたら。私なら速攻で逃げる。
「お父さん、お母さん。聞いて?」
 しばらく無理のようだった。きっぱり固まっている。これは時間が掛かるなと、政人は諦めた。
 麻衣子は、玄関すぐ隣の居間の掘りごたつで座りながら口を開けて意識を失う両親二人をゆり起こした。
「……あーらららら。麻衣子がー……」
 母は強い。まず起きたのが中川母。
「うん。麻衣子だよ。ね、お父さん。起きて」
「んがー……麻衣子がー……」
「うん。麻衣子だよ。でね、あの人が今村政人さん」
 政人は、なるべく自分をソフトに見てもらえるよう努力した。当然無駄。纏う嵐は隠せない。どれだけいつからいくら修羅場をくぐって来たか。戦争から還って来た兵士にぎらつくなと言っているようなものだ。
「悪いけどな。だめだ」
 中川父。
「何故です」
「とってもとっても、あんだと麻衣子じゃ合わねえ」
「娘さんを幸せにします、必ず」
「んだがらなあ。あんだど麻衣子じゃ根性が違う。合わねえ」
「娘さんを誰かに盗られては、私はもう生きては行けません」
「悪いけどな。あんだはもうすぐ醒める悪い夢を見ているだけだ。間違ってそこに麻衣子がいるだけだ。目が醒めれば似合いのきれーな都会のねーちゃんがたくさんいる」
「娘さんが私の全てです」
「麻衣子のどこがええの」
 中川母。
「入社式で見初めた時、既にドジだなと思えました。そんな女性に会ったことがないとは言いません。けれどもその時には、私はもう恋に落ちていた。それに気付いたのは、違うフロアに配属になり、仕事で逢えなくなってからです。
 気になって仕方がなかった。こんなことは初めてでした。ドジならば誰かがフォローしてくれるだろう、それしか考えたことはなかった。けれども娘さんに逢って初めて自分がなんとかしてやろうと想いました。
 私にはある程度肩書きがあります。なにも出来ない部下ならば異動させます。ドジも同文。本来興味もありません。
 娘さんの笑顔が見たい。叶わなくとも、ひとめ逢いたい。誰かに対してそう想ったことはありませんか。
 私は二十八ですが、そう想った女性はこの世に麻衣ただ一人です。逢えなければ、ただ狂うだけです」
 いくら中川の父母でも、目の前にいる男が恋に苦しんでいると分かった。
「お願いします。麻衣との結婚を許して下さい」
 政人は深々と頭を下げた。
 誰がどう見ても、この二人は似合いではない。中川の両親は、誰かと付き合うこともない、いつもいっぱいいっぱいの麻衣子の相手など、そこらの、田舎のにーちゃんでいいと思っていた。普通の、平凡な。それでいいと。まさかその正反対、ここまで迫力のある極めつけの男前をこんな早くに連れて来るなど。
「……おっかあ。どうすんべ」
「……おらに分がるわげねえべ」
「そう言いなや。おっかあに分がらながったら、おれだって分がらねえ」
 熱い気持ちだということは分かった。だがそんなもの、いつまで続く? どこかのCMではないが、少し愛して長く愛してでいいのだ。これではかなり愛して短く愛してだ。飽きられればすぐに捨てられる。
「……あのや」
 これでも一応大黒柱。中川父が政人の頭を上げさせた。
「はい」
「麻衣子のこと、飽ぎて捨てねえが」
「出来ません」
「しわくちゃのばーさまになってもが」
「はい」
「あーえー。……あどなに訊けばいいんだおっかあ」
 どこが大黒柱。
「あんだがいい男なのは分がったが……二号さんとかなんとかがいるどが」
「いません」
 もう二度と、
「麻衣一人しか愛しません」
「あーえー……どうすんべあんだ」
 全く語彙のない中川家。
「どうすんべったって……」
「あの……お父さん、お母さん。だめ?」
 首筋を見れば分かるが、そりゃあ女にはさせられただろう。だがそれだけで、我が娘ながら無邪気で無垢なところは全く変わっていない。
「だめっつーがなあ……」
「いいでしょう? あのね、自分で言うのもなんだけど、これ以上の人私掴まえられないよ」
 そりゃ掴まえたんじゃなくて逆だし。
「まあ……だべなあ……」
 まだぐずぐず言っている中川両親。
「うん、分かった。政人、あれ出して」
 あれってなんだ。その場の三人全員思った。すると麻衣子は政人の内ポケットをまさぐる。まあなんと、歳な中川両親には目に毒な。
「麻衣。止せ」
 さすがに意図に気付く政人。
「どうして? ……ん、あった」
 麻衣子が取り出したのはあの紙切れ。
「麻衣」
 制止の声だった。まったく麻衣子は考えなし。
「ハーイこれ! 政人の給料明細でーす!」
 あの二枚の紙切れをテーブルの上に出す麻衣子。
「きゅうりょうめいさいってなんだ」
 中川両親はサラリーマンをやったことがない。自営業。
「お給料だよ」
「はぁそうか」
「数えて?」
『いち、じゅう、ひゃく……』
 中川家の血である。二人同時に泡を吹いて倒れるところも。
「あ……どうしよ」
 だから止せと言ったんだ。そんなつまらない説教を、政人はしなかった。
「お父さーん。お母さーん。起きてー」
 政人は、さても今日中に許しを得られるか自信がなくなって来た。何度も来るような暇はなし。
 中川両親はまたも麻衣子にゆり起こされて目が覚めた。
「ね? いいでしょう?」
 なにがいいんだ麻衣子。その自信はどこから来る。
「ぜっっっってえ合わねえ。絶対捨てられる。間違えねえ」
「そんなに合いませんか」
「合わねえ」
「ならばあんな職は捨てます」
「え」
 政人は現在の肩書きが課長なだけで、実際の業務は専務のそれをこなしている。その判断が、社員四桁およびその家族の運命を握っている。昇進する前からこれが毎日。誰もが政人の指示を待っている。頼っている。政人は我ながら、この業務が出来るのは自分だけだと思っている。実際そうで。夥しい部下は、あの部屋に自分達をまれにしか入れてくれないことを心底恨んでいる。せめて秘書の二人や三人は付けて欲しいと。
「金も名誉も要りません。麻衣さえいれば、もうなにも」
 こんなことならさっさとそうすればよかった。政人は、仕事の能はないと嘆く麻衣子が、自分の分も頑張って欲しいと思っていることを知っている。今村の男は体面を重んじる。それだけで東大に入った。それだけで出世を望んだ。
 だがもうこうなればなにも要らない。ただ麻衣子だけ。
「……どうすんべ。あんだ」
「どうすんべったって……」
 目の前には、悲壮な覚悟で許しを得るまでてこでも動かないであろう極上のいい男。その隣にはのんきな我が娘。全く合わない。
 中川両親は同時にくるっと後ろを向き、ひそひそ話をし出した。狭い日本、狭い居間。そんなに急いでどこへ行く。要するに全部筒抜け。
「い。い。……いいんでねえの」
「でもよぉ……」
「なんつーが……だめって言ってもかっ攫われそうだぞぉ……」
 その通り。
「んでもよぉ……」
「あの麻衣子が、あれ以上は……ちょっとなあ……」
「……んだよなあ……」
 その後もなにやらごにょごにょ会話があり。
「あー。えー。おっほん」
 体勢を戻し、わざとらしく息を整える中川の大黒柱。
「まずだな。仕事は辞めねえでけろ」
「分かりました」
「あどな。なんぼ飽きだっつったって、麻衣子を途中で捨てねえでけろ」
「有り得ません」
「あーえー……んじゃな。えー。……孫の顔見せでけろ」
「お任せ下さい」
 そういうのだったらとっても自信がある。
「では、お許しを得られた、ということでいいですか」
「まあ……なんつーが……」
「ありがとうございます」
 まだうんって言ってないし。
「では今後の予定を。本日役所へ行って籍を入れます。麻衣には会社を辞めて専業主婦になって貰います。結婚式および披露宴は東京で三ヶ月後に。その後私は日本を出て海外に勤務します。もちろん麻衣も共に」
『え』
 まったく初耳。寝耳に水。
「披露宴の出席者名簿を作るので、招待したい方の名前を思いつく限り言って下さい。この場ででなくて構いません」
 政人は、逢ったあの日に麻衣子に渡したのと同じ、あの名刺をすっと差し出しテーブルに置いた。名前、自宅の住所、プライベート用の携帯番号、メールアドレスが載った、二枚しか渡していない名刺。
「新婚旅行は十日間。その直前は仕事で最低一週間は完全に家に帰れません、その間麻衣を預かって下さい。どうぞよろしくお願いします。仕事があるのでこれで失礼します。麻衣、行くぞ」
 嵐の政人は言うだけ言ってさっさと中川家を辞した。残された中川両親は再び目を点にしてかっぽーんと口を開けて固まっていた。そうと分かっておかまいなし。まったく政人の真骨頂。
 言っちゃ悪いが許しを得られたらこんな所に用はない。さっさと麻衣子を車に押し込め、シートを倒して毛布を掛ける。とはいっても、麻衣子が今すぐ眠れようはずもなく。
「あ。あのあの」
「なんだ」
「えっとえっと。なんかね、いっぱい訊きたいことあるんだけど」
「なんでも言え。全部答える」
 とは言ってもいきなり滝のように言われた、いちいち訊きたいことを覚えちゃいない。
「あの……さっきさいごの方、なんて言ったの? ゆっくりもう一回言って」
 答える時間は今しかない。政人の心はもう、麻衣子を犯すことしか考えていない。
「今後の予定。東京へ戻って区役所に行って籍を入れる」
「あの。今日は、実家にお泊まりするんじゃないの?」
 まさか。
「久々だったし……」
「音が漏れる」
「え?」
「俺達の愛の営みの音」
 政人にしては随分オブラートに包んで言ったつもり。
「え?」
「喘ぎ声。腰を激しく叩き付け合うから木造の床がぎしぎし言う。愛液と精液の混じり合う音全部」
「わー待って待って!!」
 麻衣子は起き上がろうとしたが政人がやんわりと止めた。
「わ。……分かった。うん。えっと、次。せきをいれるってなに?」
「お前は今村麻衣子だが」
「うん」
 このすんなりな肯定を、どれだけ政人が悦んだか麻衣子は知らない。
「役所の戸籍上はまだだ」
「あ……そっか」
 そんなものは単なる口実。政人は間違っても、麻衣子が自分を誑かして同棲しているなどという陰口を、麻衣子の耳に入れるつもりはなかった。そんな隙など作りたくもない。
「結婚式および披露宴は東京で三ヶ月後。麻衣は誰かの結婚式か披露宴に出たことはあるか」
「えっと……ああ、十歳くらいのころに従兄弟の披露宴に出たかな」
「どんな格好で」
「えっと。振り袖」
「成人式には出たか」
「うん」
「どんな格好で」
「振り袖」
「結婚式も披露宴も花婿なぞどうでもいい、花嫁が主役だ。人生で一度きりの衣装を着る」
「そ……っか」
 これでも麻衣子は女の子。淡い憧れはあった。純白のウェディングドレス、白無垢。
「安物を着せようとは思わん。だがそれで、逢った最初に失敗した。
 当日は極上の衣装を着せる。いいか」
 そういえば……
 麻衣子とて、政人がひょっとしたら、でーとという単語をわざと回避して使おうとしていないんじゃないかな、という漠然とした思いがあった。そのくらいは気付いていた。
「式場も披露宴の会場も一等地だ。いいか」
 いつもなら、こんなこと麻衣子に判断させない。政人は麻衣子がいかに判断出来ないか知っている。だから麻衣子に負担を感じさせないように、わざと意見を無視したかのように即断する。
 つまり、それだけ目の前で吐いたことが政人の心を傷つけたということ。分かっていただろう、わざと見せつけるように吐いたと。いかに麻衣子が政人を拒絶したいのかを知らしめるように倒れたと。吐くとは意識のあるなかやるもので、普通は倒れるまではならない。
 今でも、あんな店には行きたくない。
「うん。……いいよ……」
 麻衣子は目をつむった。あの日のように。
 この返事で政人は、麻衣子がまだまだ自分の域には達してくれていないと思った。出来れば今すぐ、欲望のまま想い描いたあんなことやこんなことをさせたい。叫ばせたい。自分のあんな両親にも一度だけだが会わせる必要がある。
 だが、全てまだ早過ぎる。こんなことまで手順を間違えてどうする。
「具合が悪くなったらすぐに言え」
「うん……」
「式の後は新婚旅行。その後日本を出て海外に勤務する。俺の会社の支社は世界中にある。日本だけに留まる仕事はしていない。昇進する前から早く出て来いと言われていた。麻衣を見初めて言い訳して日本に残っていただけだ」
「そう……」
「パリの郊外に家を買ってある。見初めた時は、そこで生活して貰おうと思っていたが」
「いたが?」
「麻衣を知った。もう、少し逢えないだけで気が狂う。それで会社にケチをつけた。勤務時間がいくら長くなろうが構わん、その代わりどこへ行っても執務室じき隣に寝泊まり出来る部屋を設けろと。
 そこにいろ」
「うん……」
 よかった……
「披露宴に招きたい友人知人がいるな。思いついた時でいい、言え。俺がいない時に思い出したらその場でメモしろ」
「うん……」
 えっと、あっこちゃんにちっこちゃんにかずくんに……
「新婚旅行は、仕事で行かないところにする。どこか希望の地はあるか」
「ううん、ない……」
「海外旅行をしたことはあるか」
「ない……」
「籍も今村麻衣子にしてからパスポートを作る」
「うん……」
「旅行の時間を作るため、直前の一週間は会社に缶詰だ、飯を作りに帰ることも出来ん、いくら俺でも仕事をさぼれん。実家に戻れ」
「あの……少し逢えないだけで、って……」
「我慢する。今村の男は自制が得意だ」
「そう……」
 後に政人は我慢するなぞ言ったことを、心底後悔することになる。まだまだ、恋のなんたるかを、こんな政人ですら、完全理解していない。
「他に質問は」
「えっと……」
「思いついた時にいつでも言え。もう寝ろ。家に帰ったら」
 犯す、と言いたかった。だがまだだめだ。
「もう眠らせはしない」
 さっさと籍を入れ、さっさと家に戻る。どれも大切なことだというのに、もどかしいほど長い時間に、政人は感じられた。この自分の、自制しているだけの己を、早く麻衣子に、一刻も早く。もう抜きたくない。そう叫ばせたい。
 自宅に着き、やっと玄関のドアを閉める。それでもう、自制は限界だった。その場で、片手で麻衣子のワンピースをめくって指を。片手でスラックスのジッパーをおろして。もう、麻衣子は声を上げている。もっと、もっと。一刻も早く。
 やっと想いを遂げた時、二人は至福の中にいた。
 一日とちょっとやったことと言えば繋がりっぱなしのやりまくり、仕方なく抜いて排泄、それだけ。風呂にも入れず飯も食わせなかった、そんな余裕はまるでなかった。月曜朝が嫌いだと言う無能な社員の言うことを初めて理解した。麻衣子を知れば知るほど「初めて」が増える。なんでもいくらでもやって来たつもりだというのに、恋とはかくも恐ろしい。
 時間がなかった。急いで三食分の食事の支度をする。このままだと朝食すら一緒に摂れない。
 寝室に戻る。とっくの昔に麻衣子は失神、意識を失っている。元々体力なんかない。このまま寝かせるべき。
 時間がなかった。全ては自分の、このおぞましいドス黒い欲望のせい。
 いつものキスをすればすぐに火がつく、自分だけ。とても耐えられない。よだれを舐めたくり、下着とパジャマを着せ、携帯を枕元に置いて家を出た。後ろ髪を引かれる想いとはまさにこのこと、これまた初めての感情。
 その後麻衣子は空腹で目が覚めた。なんだかこれっていつもである。
 時間を見ると、午後三時。
 はぁ……
 お腹減った。ぐーぐー鳴る。とことこ歩いてキッチンへ。思った通りごはんは出来ている。温めて食べる。
 それ以降は、なにもする気がなかった。放心、まさにそれ。
 何度喘いだか。何度愛を叫んだか。何度呼び、何度呼ばれ叫ばれ。いきまくって。言われた通り、愛液と精液の混じる音は間断なく、腰を互いに叩き付け、骨と肉がぶつかり合う。
 ……止めた。多分政人は何日も帰って来ない。
 そうだ、お風呂に入ろう。汗べっとり。
 こんな体を、政人の力強い指や熱い舌が何度も這って……
 風呂場の鏡で自分の貧弱な体を再認識しようと見ると、はたと止まった。
 な、なにこれ。
 それは所有の刻印の数々。赤い花びらが容赦なく散って。
 麻衣子はBカップ。胸などない、くびれは少々、骨盤が細くてお尻も小さい。痩せてあばらが浮いて。
 ……どこがいいのやら……
 いつも張ってあるという湯船に入る。広くてとてもきれいな風呂場。落ち着く、安心する。
 とはいえここでもやられている。それを想い出すと、また体のど真ん中が熱くなる。ぬるつく。あのピストン運動の激しさは、串刺しされた容赦のなさは、中に散々刻み込まれている。消えはしない。
 もういや……
 髪を洗ってさっさと風呂場を出る。もう眠ろう。くたくたなのは事実だから。