5

 今日は水曜日か。
 ……もう、会社に行かなくていいんだ。
 麻衣子だって、あの言葉に甘ったれているという自覚はあった。もっとも、ちゃんと説明してもらったのに、政人の妻があくせく稼ぐのはおかしいということは忘れたが。
 ……ぼーっと、していいんだ。
 夕べやられまくってろくに眠っていない。体力を使い果たしている。食事もした、さっそく眠くなる。着ていたパジャマのまま寝室へ向かってぽってりと眠った。
 起きたのは空腹でだった。はあ、結構眠ったな。時間を見ると二時だった。
 ゆっくり起き上がって台所へ。なにかつくってあるかも。
 鍋が三つ並んでいて、中身はどれも美味しそうなもの。ジャーを開けるといいにおいがむんとして、つやつやのご飯があった。
 そういえば、三日って言った。これ食べ切ったらどうしよう。
 自分でつくればいいだけの話である。
 食べおわって、ぼーっとしていた麻衣子の耳に、電子音が届く。政人かな。
 とことこ携帯を取りに行く。待ち受け画面をきちんと見ると、上條だった。
「はい、麻衣子です」
「中川さん、どう? 気分は」
「……幸せです……」
「はぁ……そう……」
 麻衣子は、なにも言わず上條の家を出たことを謝らなければならないが、全く出来ない。だから社内に友達がいないのだ。
「じゃあ、もう心配いらない?」
「えっと……あの、大丈夫です」
「その状態で訊くのも野暮だけど。どうして最初から吐いていたの?」
 ここまで世話になった人に、言わないわけにはいかないだろう。
「……私。だめなんです。仕事……向いてません。入社一日目で分かりました。でも、そんなの人間失格と思って……我慢して来たんです。でも、……もう無理で……」
「そう。それ、今村課長に言った?」
「……はい」
「なんて言ってた?」
「……すぐ、私の上司に電話して私を退職させろと……」
「それで?」
「……専業主婦になれって」
「そうねえ。あの課長の奥さんが、同じ会社であくせく働くっておかしいもの」
 なにかこれ、前にもどこかで言われたような。
「あなたはね。心がとても傷ついたの。これを治すには時間が掛かるわ。一番の治療法はね、仕事なんか辞めてのんびり出来る環境で、なにも考えずゆっくり休むこと」
「……いいんでしょうか」
 そんな楽をして。
「あなた、これ以上頑張れる?」
「え……」
「出社して。まだまだ新しいこと覚えなきゃならなくて。重要な判断を求められて。出来る?」
「……出来、ません」
「人には向き不向きがあるわ。確かに、あなたの感覚としてはたいていの人は就業しているかもしれない。でも、実際はそうでない人がたくさんいる。
 あなたの心は、もうとっくに折れていたのよ。治しなさい」
「……でも、……そんな、楽していいんでしょうか」
「課長は、あなたに出来る重要なことがあるって言わなかった?」
 どうして分かるのだろう。
「あなただけに出来ることよ。そうでしょう」
「……私以外でも……」
「そう言ったら、課長はなんて?」
「……気が狂うって」
「そんな人を見捨てるの?」
「……だって……」
「あなたは課長を失いたいの? 幸せなんでしょう? 考えなさいって言ったはずよ」
「……考えました。でも、堂々巡りで……」
「どう考えたの。言ってご覧」
「……すき、です。……多分、愛されてます。……でも、もっと相応しい人がいます」
「ふざけるなって言われなかった?」
「……はい」
「あなた、恋愛なめてんじゃないわよ」
「だって……どうすれば……」
「簡単よ。受け止めなさいよ全部。それとも、課長があなたにしたこと言ったこと、他の女にしてもいいっていうの」
「……え?」
「愛してるって。他の奇麗な女性に課長が今、言っていたら? 夜、どう愛されたか。それ、他の奇麗な女性と今、していたら?」
「え……」
 麻衣子はどきりとした。心臓が停まったような気がした。
 あんな……こと。政人が、……
「いやです! いやぁあ!!」
「だったら離すんじゃないわよ一生。じゃあね!」
 そこで電話は切れた。たまらず涙がにじむ。
「あ……」
 メール着のアイコンが待ち受け画面にあった。誰だろう。
 見ると、今村政人とあった。
 いつの間に……私、登録なんてしたっけ。
 実は夕べ最中に政人がきちんと麻衣子に登録するぞと言って携帯を操作したのだが、あまりに行為が凄過ぎて覚えていなかった。
 メールを開く。
“電話しろ”
 なんてまあ、政人らしい。
 犬の麻衣子は見境なしに電話した。おばかである。
「麻衣子」
「政人……」
「飯は食ったか」
「うん」
「昼寝は」
「うん。した」
「飯、金曜の夜は俺がつくる。それまで自分で出来るか」
「えっと……あの、これでも一応、一人暮らしだったから。食材もあるし。なんとか」
「もっと声を聞かせろ」
「えっと……」
「黙るな」
「だってあの……」
「俺をどう想っている」
「……夕べいっぱい言った」
「今も言え」
「政人……あの……」
「なんだ」
「……夕べみたいなこと……他の、奇麗な女の人に、する?」
「俺は夕べ、お前になんと言った。今すぐ答えろ」
「麻衣子、愛してるって……」
「俺は他人にそれを吹聴するほど不誠実か。答えろ」
「……違う」
「やはり独りだと不安か」
 これは仕事を放棄されそうだと思った麻衣子、
「だ、だめだめ、ちゃんと仕事して」
「お前次第だ。麻衣子がそばにいるなら仕事する」
 麻衣子は諦めた。
「……ちゃんといるから……お願いよ……」
「その言葉忘れるな」
 政人は電話を切ると、すぐに藤村と上條を課長室に呼び出した。揃って顔を出す二人。
「あのさあ……俺達ってね。あんたの極秘プロジェクトに参加しているのかって疑われているワケよ。言い訳ももう尽きたのよ。電話で済むんじゃないの?」
「今回は君はついでだ」
 政人は上條に問い質す。
「麻衣子になにを吹き込んだ」
「答える前に質問があるわ。どうして中川さんを退職させたの。知らない訳ないでしょう、うちの会社倍率とんでもなく高いのよ。せっかく入れたのに、努力がパーよ。もったいないと思わない? 結婚もいいけど会って何日目? 早過ぎると思わない? 女心はね、勝手な男にただ付いて行くなんて出来ないわよ」
「麻衣子は自分が下す判断の責任の重さに耐えられん。だから私が無理矢理命令した。返事を待たずに退職させた。これ以上働かせ、また目の前で吐かれろとでも言うのか。私は妻をあくせく働かせるほど安月給ではない」
「そうね、あんたは高給取り、そして激務。中川さん、今頃寂しさで泣いているんじゃない?」
「だったら君も相手をしろ」
「そう。じゃ、なにを吹き込んでもいいのね」
「君はその程度の人間ではない」
「まあ。私達には任せられないんじゃなかったの?」
「仕事の役には立たん。麻衣子の役に立て」
「……かっちーん……」
 いくら軽い藤村でも怒った。
「俺達これでも四年間、こーんな会社に勤めおおせたんだけど?」
「昨日の電話番は最低だなと、今朝連絡があった」
 黙らされる二人。
「君達は何ヶ国語を話せる」
「え? ……だってこの会社、英語必須って……」
「私は三十二ヶ国語だ」
 なんですと?
「入社六年、二年しか違わん。君達は仕事では無能だ」
 答えられない二人。
「余計なことを麻衣子に吹き込むな。職場に戻れ」
 その日の夜今村家では、麻衣子がのんきにごはんを食べおえていた。夕飯分まではつくってあった。問題は明日だ。胃は元に戻ったからよしとして。
「お米……どこかな」
 あった。
「磨いで……っと」
 なんとかジャーの予約をセットして、風呂に入って眠った。
 プレッシャーなしによく寝て、翌朝よく起きる。半年間全く出来なかったこと。
「はぁ……んんん……」
 麻衣子は気持ちよくのびをして、ベッドを出た。
「お味噌汁〜、卵焼き〜、納豆〜」
 わびしい食事である。
 食器も片付けたし。さて、なにしよう。今日は木曜日。明日の夜には政人が帰って来る。それまでなにしよう。
 とりあえず家の中を見渡す。パソコン、大きなテレビ、操作の分からなさそうなビデオデッキ。
 パソコンなら、これでもついこの間まで社会人、ちょっとは扱える。ネットでニュースでも見るか。
 マウスをぱこぱこ、適当に遊んだ。
 どのくらい時間が経っただろう、電子音が鳴る。
「はーい」
 おばかな麻衣子は返事をして、携帯にとことこ駆け寄る。きちんと待ち受け画面を見ると、今村政人。
「政人」
「麻衣子。起きたか」
「うん」
「飯はなにを食べた」
「ごはん、納豆、お味噌汁、卵焼き」
「それだけで間に合うのか」
「いつも大体こんなかんじ。よく食べた方だよ」
「昼寝は」
「えっと別に……夕べよく眠れたし」
「退屈か」
「ううん。私、休みの日はなにもしてないでぼーっとしてたの。あ、パソコン勝手に借りちゃった」
「家の中のものはなにを使ってもいいし、なにをしてもいい」
「あの。テレビ、映る?」
 いつの時代だと思っているのだ。まさにおばか。
「BSでもCSでも。どんな番組が好みだ」
「えっと。MTVとか、ダンスの試合とかフィギュアスケートとか採点競技が好き」
「テレビの下に番組表がある。見ろ」
「あのビデオデッキ、どう使うの?」
「帰ったら教える」
「うん。あのね、仕事して」
「麻衣子がそばにいるのなら」
「ずっといる」
「その言葉忘れるな」
 電話をおえると、麻衣子はさっそくテレビを観ることにした。CSだって。なにやっているかな。番組表、番組表。
 好みのチャンネルを見つけると、それをボケーっと観た。
 時間を忘れていた麻衣子が昼飯をと気付いたのは午後二時、空腹でだった。
 はー、おなか空いた。
 いつもなら近所のスーパーに行って調理の必要のない総菜に頼ればいいのだが、あの時政人はああいったものを一切買わなかった。
 うーん。ま、いっか。
 一食分だけのごはん・みそ汁をつくったわけではない。ずぼらな麻衣子は昼飯だけではなく夕飯まで朝と同じものを食べた。
 スーパーの場所、訊かないといけないなあ。
 政人は三日帰らないと言ったが、それは多分今回だけ。この先もっと長く帰れないことがあるだろう。いくら麻衣子でも二十二歳、仕事はともかく自分のことはなんとか出来る。
 などと麻衣子は自信を持ってそう思っていた。もちろん大間違い。
 翌金曜日も麻衣子は同じ内容の飯を食う気まんまんだった。ずぼらである。
 多少、マンネリと思わないでもないので、にせもののチーズとにせもののカニカマが巻かれたあのおつまみも朝食べていると、電子音が鳴った。多分もう、この人しか掛けてこない。
 思った通り、政人だった。
「麻衣子。いつ起きた」
「さっき」
「飯は」
「今食べてる」
「邪魔したか」
「そんなことない」
「なにを食べている」
「ごはん、納豆、お味噌汁、卵焼き」
「夕べは」
「同じもの」
「その前の昼は」
「同じもの」
「今日の昼は」
「同じもの」
「そうか」
「うん」
 外はいい天気だった。お散歩したい。
 おばかな麻衣子はさっそくそれを実行することにした。この辺の地理が分からないことなどさっぱり考慮せず、鍵を持たされていないことも考えず。さらには携帯、財布すら持つことを忘れて玄関のドアを開けた。鍵は掛かっていなかった。
 門の外に出ると、ここは都心かと思うほど、周りの建物は高くなかった。空がよく見える。青く、清々しい。ああもう秋だ。
 てきとうに歩いた。
 するとどうなるか、考えるまでもないはずだが、麻衣子はそれが全く出来ない人間だった。当然、迷子になった。
 あれ。ここ、どこ。
 そろそろ戻ろうかと思って後ろを振り向いても、あのマンションは見えなかった。っつーか麻衣子は自分達のマンションの外観すら覚えていない。
 と、いうことは。
 ま。い。ご。
 ……
 この歳で?
 はい、その歳であなたは迷子です。おばかさん。
 麻衣子は自身の体をまさぐった。財布なし。携帯なし。登録した携帯番号、なにひとつ覚えちゃいない。せいぜい前職場、実家の固定電話。しかし、コイン一つ持っていない。
 そ、そうだ。そうそう。交番を探そう!
 麻衣子にしてはましな考えだった。しかし、結果長距離を歩くはめに。
 つ、疲れた……
 おばかな麻衣子。そのへんに何ヶ所もあったコンビニで道を訊きゃいいだけである。
 そんな麻衣子にも珍しく幸運が訪れた。交番ではなかったが、一度だけでも行ったところに来たからだ。
「喫茶井上……」
 まさに渡りに船。猫に小判(用法間違い)
 麻衣子には自分が所持金ゼロということを考慮に入れる能力はない。フツーだったらとっ捕まるシチュで店に入った。
「らっしゃい」
 前にちらとだけ見たあのマスター。間違いない、ここだ。よかった。
 麻衣子は持って来てもらったメニューで平然とココアを頼んだ。犯罪である。
 麻衣子は当たり前のように来たココアをすすった。はい前科一犯。
 しかしそんな感覚は麻衣子にはない。歩きづめで疲れていた。やっと人心地付いた。よかったね麻衣子。
 そんな麻衣子の隣の席に、誰かが座った。
「え?」
 ふと見ると、男性だった。歳の頃は麻衣子と同じくらいか。いわゆるイケメンであろう。
 ただし現在の麻衣子は、そんなものを飛び越した存在を心も体も知っている。だからおばかなことに、座られたこと自体なんとも思わなかった。マスターは、この時点で外線電話を掛けた。
「一人?」
 涼やかな声だった。
「あ。はい」
 答える麻衣子。おばかである。
「隣、いい?」
 いいもなにももう座っている。
「えっと」
 すぐ断れ麻衣子。
「彼女と同じものを」
 涼やかイケメン好青年はカウンターを振り向きこう言った。
「よかったら一緒に、俺とこれからどこかへ行かない?」
「え?」
 麻衣子はおこさまで恋愛経験はなかったが、それなりに告られたし、ナンパもされた。告られた時は全員に、そんな余裕ありませんすみませんと言った。ナンパされた時は全員に、すみませんと言って逃げた。
 麻衣子は生真面目だったので、学校とは勉学するものだと信じて疑わなかった。そしておばかだった。授業について行くためにそれなりに勉強した。周囲を見渡せるほど余裕があった時はなかった。義務で勉強して、それがおわったらあとはもうなにもしなかった。大学に入ったのは、周りにつられてだった。そんな時に告られても余裕はなかった。運と偶然で大学に入ると、講義の取り方とやらを自分で考えなくてはならず、ほとほと困った。麻衣子は「こうしろああしろ」と言われ、その通りにすればいいと安心するタイプ。自分で考え出す、生み出すなんて出来なかった。そんな時にナンパされても逃げることしか思いつかなかった。就職したのももちろん周りにつられて。大学三年の秋から既に周りは焦り出し、つられて自分も焦り出した。何十回も試験に落ちた。幸運だけで入ったあの会社。
「聞いてる?」
「えっと。あの」
 おばかな麻衣子。夫がいると言え。っつーかその左手の薬指を見せろ。
「あの……私、お財布とか持ってないし……」
「ああよかった。ここ払うよ。だから俺に付いて来て」
 やっとここで思いつく。ああ私、無銭飲食?
「でも……」
「でもじゃないよ。ここの払いはどうする気? 無銭飲食? 犯罪だよ」
 答えられなかった。
「いやなら俺について来ることだね。おい、ココアまだか?」
 私、ついて行かなくちゃいけない。
 実におばかな麻衣子は、またおかしな義務感に駆られていた。
 麻衣子が黙ったのを見てほくそ笑んだ男性は、あとは一杯飲めばこの女をやれると高をくくった。このまま行きゃそうである。
 五分、十分経ってもココアが来ることはなかった。男性にとってはあんなもの、粉に熱湯をぶっかければ出来るもの。金を取るなんてぼったくり。それがこんなに待たされて。目の前には初心な小娘。
「おい、まだか!」
 するとカウンターには、マスターがいなかった。
「……ちっ」
 店の主がいなければここにいることも、金を払う必要もない。男性はやっとそう判断し、麻衣子の二の腕を掴んだ。
「来い!」
「え」
 すると店の入り口のドアがカランと鳴る。やっと登場。当然政人。お約束である。お待た〜
「麻衣。帰るぞ」
「政人」
 政人は麻衣子の戒めを簡単に解くと男性と麻衣子の間に割って入り、麻衣子を抱きかかえた。
「え?」
 いくら甘やかされるのに慣れさせられた麻衣子でも、こんな抱き方を店内でされるなんて。腿の下に政人の左手、背中に政人の右手。必然的に政人の男性然とした首元に顔を埋めることになる。犬なので、さらに首に腕を回して。
「お仕事は?」
「後だ」
「だめって言ったのに」
「俺のそばを離れるからだ」
「あの」
「俺をどう想っている。今すぐ答えろ」
「だいすき」
 麻衣子は、これが耳元で囁いている、つまり今すぐやってと言っているような行為であることなど考えもせず。
「もっと言え」
 おばかな麻衣子はその通り言い続けた。ここは店内。おばかである。
 車内にて。
「あの」
 政人は麻衣子の言葉を遮って、目の前にすっと小さな物体を出した。なにかのカード?
「これなに?」
「クレジットカード」
 もちろんゴールド。
「それってなに?」
 新卒入社後半年で辞めた人間には手に出来ないものである。
「現金の代わりだ」
 もうちょっと説明してやれよ。
「麻衣。携帯は」
「……持ってない」
「そうか」
「……ア!」
 政人は麻衣子のジーンズのジッパーをおろしてまさぐった。すぐに快感が来る。
「まさ……うんてん……」
「脚を開け」
 その通りにした。すると政人の指は、そのものずばりの処に這い、布をずらして中に。
「ン!」
 当然濡れる。もうだめだった。車内は麻衣子の、抑えることを知らない声で充満した。
 大して時間の掛からなかったドライブ中いかされて、着いた頃にはぐったりして、麻衣子はもう自力で歩くことなど出来なかった。
 時間は午後三時だった。
 麻衣子が家を出たとは管理人が知らせて来た。すぐに麻衣子の携帯に電話したが出ず。政人は思う、タクシーを使う性分ではない、あんな所まで歩いて。元いた自宅の近くでもない喫茶井上。麻衣子があの店に行ったのは今度で二回目。となると、あの店にたどり着いたのは単なる偶然、経過時間からいって散々歩き回った挙げ句。
 政人には、同大学の同年で、気の合わない男がいた。その理由。低学歴の妻を自宅に完全監禁していること。しかもそれを誇示して憚らない。理解出来なかった。他人事だが、いくらなんでも可哀想ではないか。
 だがやっと分かった。あの男は恋を知っていたのだ。こんな、身を焦がすなどという、浅はかな軽い表現でなど言い尽くせない想いを。やっと分かった、だから監禁したのだ。
 言っちゃ悪いが麻衣子の性分能力を想うと自分も今、そうしたくなっている。
 何度も同じ食事を取らせるなど、もうさせはしない。元から惚れてもらう以外、麻衣子になにもさせるつもりはなかった。だがどうやって生活していたかは見てみたかった。
 家に帰り、寝室へ連れて行って着せた麻衣子のパジャマを右肩だけ脱がせる。喫茶店で麻衣子をナンパした男が触れた二の腕あたりを、執拗に舌とくちびるで舐めたくる。仕事が大詰めの今、明日明後日無理矢理休みを取るための今、これ以上のことは出来なかった。食事すらつくってやる時間がない。政人でもってさえ。
 忸怩たる想いで家を出た。車に向かうまでの間、マスターに感謝の電話を。
「ありがとう」
「だからなんでそう素直なんだよ」
 この二人、学生時代同じ学校だったことはないが、これまた同い年だった。
「分かっちゃいるだろうがあんたの女房もふわふわしてるぜ。ちゃんと言っとけよ。思わず俺が言いそうになった」
「なぜしない」
「昔それで痛い目に遭ったんで」
「俺も麻衣を監禁したくなった」
「それだきゃー止めとけ」
 麻衣子が起きたのは午後五時、空腹でだった。
「おなかすいた……」
 あれだけの朝食しか食べておらず、散々歩き回って仕舞いにゃ短時間で攻め立てるようにいかされた。当然である。
 でも、時間は五時だった。あと少し待てば政人が帰って来る。今更食べてはいけない気がした。
 すると電子音がした。携帯だ。しかし、いつもの音と違った。まるで警告を発しているような。
「あ、充電……」
 そう、着信音ではなく、電池が切れましたという音。充電を忘れていたのだ。おばかである。
 麻衣子は空腹を引っさげ自分の荷物がある部屋に行き、充電コードを探して刺す。
 するとすぐに電子音が鳴った。メールだ。
「えっと」
 政人だった。内容、
“果物を食え。牛乳を飲め”
 だった。
 なるほど、果物と牛乳なら。
 犬の麻衣子はその通りにすると、なんとかお腹を落ち着かせた。ほっとした。
 そういえばと思う。自分は政人に一度もメールしたことがない。携帯代ももったいない、相手は仕事中。だったら、と思ってメールする。
「えっと」
“今日はありがとう。どうして分かったの? 私、散歩したんだけど道に迷って。お財布も携帯も持ってなくて。心配させてごめんなさい。もうしない”
 麻衣子のもうしない、などなんの頼りにもならないと、政人はこの後よくよく思い知ることになる。
 今日は午後七時には帰れる予定だった政人。だがマスターに「あんたの女房ピンチだぜ」なる電話をもらった途端意識が飛んだ。気がつけばあの店にいた。だもんで時間を取られ、帰宅が遅くなった。
 政人をして、麻衣子に一度しか逢えなかった五ヶ月間。その忙しさは今も大して変わらない。なのにこの間から土日に無理矢理休んでいる。政人にかけがえのない聖域が出来たことなど、政人の友人知人ならばもうすでに分かっていた。あとは、それが誰であるかだけ。
 さぞ腹が減っているだろう。なにもかも全て食わせてやる。もちろん自分をも。
 やっと仕事を終わらせる。はやる気持ちを、高まる気持ちを落ち着かせるように電話した。
「麻衣」
 その頃麻衣子はぼけっとテレビを観ていた。足が痛かった。
 電子音の鳴るところに行く。
「政人」
「今おわった。すぐ帰る」
「うん」
 短い電話をおえて、時計を見ると午後九時。
 謝らなくちゃいけない。ほんとにドジだと思う。なんでこんな私がいいのかと思う。
 今更政人を失えないが、現状は砂上の楼閣。政人の意一つで麻衣子は路頭に迷う。簡単なことだった。
 そばにいるのは難しい。