3

 睡眠だけは充分取れたので寝室に用はなく、出た。居間へ。
 そういえば、この家の中を見て回る余裕はいままでなかった。ふらふらと台所へ。バナナなら、食べられる。
 少しずつ食べていると、そういえばと思い出した。電話しなきゃ。
 暗い寝室へ戻って、なんとか携帯を見つける。さっきの番号へ。
 麻衣子は、相手が現在就業中であることなど考えなしに掛けた。
「もしもし……」
「中川さん! 起きたの?」
「あ、はい」
「どう? 具合は」
「えっと……ちょっと、食べました」
「そう、よかった。じゃあ、この後会わない?」
「え……」
「そういえばあたし、あなたとあんまりまともに喋ってないのよ。どこか喫茶店でも一緒しない? ああそうそう、藤村のバカも連れて行っていい?」
「えっと……」
 麻衣子は考えること、決断を下すことが苦手だった。前者はともかく、後者は二十二年も生きていてほとんど出来たことがない。
「中川さーん」
 答えを返さない麻衣子に、上條は軽く言った。
「あ、あの……いま、人の家に……」
「ああ、鍵を持っていないの?」
「はい、そうです」
「だったらとりあえず出て。管理人さんにでも鍵掛けてもらえば?」
 ああなるほど。その手があったか。
 そういえばここはマンション。入り口に管理人室があった。奥に人がいた。あの人に言えばいいか。
「分かりました」
「お金は藤村のバカが出すから、タクシーでね。○○町の喫茶井上で待ってるわ。ゆっくりおいで」
 上條と藤村の二人が就業中私用電話に出たこと、その場で即早退を申し出て、上司に苦々しく思われたことなど麻衣子は思い馳せず、持っている一番大きなバッグに入る分だけ荷物をまとめて家を出た。
 貧乏の麻衣子はタクシーに乗ることをためらったが、さっき言われた喫茶店への道は分からないし、電車に揺られていいような体調でもない。お金は自分が払えばいい、タクシーを停めて乗った。外は曇りだった。
 喫茶店に着く。店内に入ったはいいものの、そういえば麻衣子はあの二人の顔を覚えていなかった。どうしよう。
「中川さーん」
 麻衣子を呼ぶ声。そっちを見ると、言われた通りなかなかな美人と、ノリの軽そうな、でも悪くないマスクの男性が座っていた。あの二人だ。
「あ、あの、このたびはどうも」
「あーあーそんなのいいから。まずは座んなさい、中川」
 この男性が藤村というらしい。麻衣子は言われた通り、上條の隣に座った。テーブルを挟んで向かいが藤村。
「では自己紹介を。あたしは上條。こっちが藤村。よろしくね」
「あ、あの、よろしくお願いします、中川麻衣子です」
 学生時代なら周りは同世代、ゆっくり知り合えばよかったが、社会人となると同期以外をたくさん一気に覚えなければならない。麻衣子は初対面の人に会うのが苦手になっていた。入社式以来の、どきどきとした緊張感だった。
「っつーワケで中川、俺達の前でそんなキンチョーせんでくれ。ノンキに行こうぜノンキによ」
「はあ……」
「そーゆーコトよ中川さん。あんまりまともに話すことなかったけど、これからはなんでも言ってね」
「あ、……ありがとうございます……」
 麻衣子は嬉しかった。入社以来の同期は最初こそよくしてくれたものの、麻衣子のあまりのドジさに次第に敬遠され、社内に友達と呼べる人間はいなかったから。
「あの……」
 さっそく麻衣子は言ってみることにする。
「ん? なに?」
「あの、どうして……ほとんど初対面の私に、そんなこと言ってくれるんですか……」
 下を向きながら言った。
「あら。気になったから、じゃ理由にならない?」
 そんなこと言われても、麻衣子には分からなかった。
「話す切っ掛け、同じ会社の人だから。電話した切っ掛け、具合が悪いって聞いたから。同じ女だから。これじゃ理由、弱い?」
 弱いと思う。実際、同期は自分を知れば離れて行った。
「どうして会社を休んだか、訊いてもいいかな、中川」
 突然本題を突かれ、麻衣子は口ごもった。
「フーン、なるほど、初対面の男にゃ言いたくないか。中川、今日は上條ん家に泊まって行けや。女同士の熱〜いトークでもぶちかましなさいヨ。ま、とにかく茶を飲もう」
 そういえば、注文をすることを忘れていた。とにかくなにか飲まないと。
 麻衣子はとりあえずメニューを見た。コーヒーはだめだから、と。
 ……紅茶……
 ココアを頼むことにした。
 深く突っ込んだことは喋れなかったが、麻衣子にしては上出来なことに、この二人ととても仲良くなれた。要するにこの二人はおせっかいの気があるらしい。会社の誰それの性格が悪いとか、あいつは実はああいうやつだとか。共通の話題が出ると嬉しいものだ。半年ぶりに、楽しく誰かと会話した。
 気がつけば六時を回っていて、そこでこの場はお開きとなった。麻衣子がごそごそと財布を取り出すと、
「あ、いいのいいの。こいつが払うから」
「え……」
 この反応で、上條と藤村には麻衣子が男性経験さっぱりなし、はおろか、付き合ったこともない、さらには人間関係を築くのも苦手だなと分かった。
「ほい、タクシー代」
 ぽんと渡されたのは、ATMでは使い道のない二千円札。
「ちょっとあんた、これ使えないじゃない」
「やーナニナニ。ちょうど財布にあったんで」
 そんな二人の軽い会話に、麻衣子はやっと思いついて割って入った。
「こ、……こんなの、戴けません!」
 すると藤村、すんなり反論する。
「あっそう。じゃアナタはボクの好意を無にすると。踏みにじると。そう言いたいワケね」
「え」
 そんなこと、どう言い返したらいいか分からない。
「にっこり笑って受け取るのが、年下の、女の子の、務めなの。お分かり?」
 麻衣子はふるふると首を横に振った。
「あっそォ。そーーーんなにこのボクのことを」
「あああのその……う、受け取ります……」
 喫茶店の外に出る。藤村は別行動らしい。あるいは自宅へ帰ったか、別の道へ消えた。
「あたしの家ここから近いんだ。歩いて行くぞー」
「あ、はい」
 ありがたかった。麻衣子には今日の、明日の宿もない。
 歩いて三分もせず、二階建てのアパートに着いた。
「ここよ、二階の二〇二号室」
 女二人はカンカンと階段を上がって行った。
「ごめんね、荷物重かったでしょう。藤村のバカにでも持たせりゃよかったんだけど」
「あ、あの、いいです! それにさっき、おごってもらって、あの」
「んー? 男が女におごるなんてトーゼンよ? っていうか、逆なんて有り得ない」
 そ、そこまで言い切りますか?
「あたし、あいつと四年同期やってるけど、食った飲んだで金払ったことないわ」
 いいんでしょうか、それで……
「さーてと。ごめんね狭くて汚くて。テキトーに座って」
 二間のアパートだった。手前が居間兼台所。奥にふとんが敷いてある。
「なに食べる?」
「ええと……あの、いいです」
「バナナちょっとしか食べてないんでしょう?」
「えーと……でも……」
 まさか、こんなによくしてくれた上條の前で吐く訳にはいかない。
「えっと……私に構わず、食べてください」
「そんなコト言わないでさ。ご飯にお味噌汁に焼き魚。ま、あたしあんまり料理出来ないけど、食べてやってよ」
 麻衣子は困った。今、炭水化物が入るような胃の状態ではない。多分吐く。
 麻衣子の返事がないと見るや、上條はずばり切り出した。
「で。いつから吐いてたの」
 口調も違った。さっきまでは優しいおねえさん、でも今は。
「今村課長に会ったせいで金曜夜に吐いたことは聞いた。でも多分、あなたが吐いていたのはもっと前からね。情報源は主任。もっともあの人だってあなたからそう訊いた訳じゃない、でも最初の頃より体が細くなってるって。
 いつ。中川さん」
 有無を言わせぬ口調だった。
 これに答えることは、麻衣子がいかに社会人失格かを言わなくてはならない。四年先輩だということは、四年間もまっとうに仕事をこなして来たということ。そんな人に、私は仕事したくありあませんなんて駄々をこねなくてはならないのか?
「言いたくなければこちらから言うわ。最初からね」
 どうして皆、分かってしまうのだろう。
 上條は政人が“もっと前から吐いていたことを知っている”と言ったとき、嘘だと思った。吐いたのは自分のせいじゃない、他に理由があるんだと責任転嫁したのだと。
 だが麻衣子は線が細く、周りから浮き、未だ業務に慣れず。昨日今日の出来事が原因ではない。
「今村課長となにがあったの」
 多分訊かれるだろうと思っていた。今の麻衣子にとってもっとも答えたくないこと。
「人の家にいたと言っていたけど、課長の家ね」
 なにも言えなかった。
「連れ込まれて無理矢理やられた。そうなのね」
「違います!!」
 麻衣子は立ち上がった。貧血でふらふらした。
「どう違うの。そうなんでしょう」
「……私!!」
 麻衣子は泣き出した。だが上條は冷静にそれを見つめるだけ、ハンカチを差し出そうともしない。様子を見ていた。
 麻衣子は自分のことをこと細かく言うタチではない。それはさっきの喫茶店の会話でよく分かった、なにせ自分達だけが語りかけ、麻衣子はそれにつられて笑っていただけだったから。
「わ、……私、……あの人のこと知ったの、初めてだったんです」
「それで?」
 続きを促しながら上條は、一言一言聞き逃すまいと思った。今麻衣子は無理矢理言葉を紡いでいる、しかも脈絡なしで。拾ってやろう、全て繋いでやろうと思った。
「あの時から吐いていて……でも、ごはん美味しかった。何回も続けていっぱい食べた。すごく嬉しくて……」
「その後、なにがあったの?」
 麻衣子にしてはすらすらと答えていた。とてもあんな、政人のような人間には言えないこと。
「デ、デートに連れて行ってやると言われて……私、そんなのしたことがなくて、適当な服しか持っていなくて、ジーンズとか好きだったし……でもとても高そうな服を貰って、着たらすぐに吐き気が戻って……」
「そう。吐いた件は分かったわ。
 それで、ズバリ。……された時、痛かった。いやと言っても強引に無理矢理。そうなんでしょう」
「え?」
 ちょっと待て。
 上條は混乱した。なに、今の返事。
「えっと……あなた、初めてだったんでしょう。血が出て……」
「な、なんですか。それ」
 ……なに、この返事。
「そんな怖いことされてません」
 ……なに、この返事。
 政人は初めて会ってその場でやったと言った。まさか、あれは嘘?
「じゃ、じゃあなにを……」
「そ、そんなの言えません!」
 泣いたそのまま麻衣子は真っ赤になった。どう見ても照れと恥じらいの表情である。上條には理解不能。
 ちょっと待て。待て待て。こ、これはひょっとして、藤村もいた方がよかったかも……
 と考えて首を振った。こんな話に男を混ぜられるか。
「え、えっと……その……い。いいじゃない。女同士よ」
 そりゃあ上條だってこんな下世話な話を無理矢理訊き出したくない。面白半分で訊いているわけでもない。だが上條には、ここが肝心な点としか思えなかった。
「あ、あの私……ああいうことは、その……したことがなくて……」
 やられたことは間違いないらしい。しかもこの様子。
 まさか……逆? 無理矢理関係を持たされたんじゃなくて、双方合意? っていうかこの様子だと……
「あ、あのあの……言わなきゃいけないですか?」
 上條を見るその表情、まさに女。
「いえその……出来れば……」
 とはいえ、なんとなく予想はついた。だから上條の方から言った。
「えっと要するに、その……すごくよかった、とか……」
 麻衣子はバっと下を向いた。耳まで真っ赤。
 ハァ……なんてこと……
 上條はその後、麻衣子の拙い口から直接、はっきりとのろけられた。そりゃあすごかったと。あのぞくぞくする甘い声で何度も愛していると言われ続け、何度も求められるほど愛されているのが分かって、これ以上ないくらい幸せだったと。ああいう感情って何かわからないと言われて、感じたんでしょ、と言ったらそういうふうに言うんですか、と言われ。いったの? と訊いたら、そういうふうに言うんですか、と言われ。誘ったの、と訊いたら、多分そういうことなんだと思うけど、どうしたらいいのか分からなくて逞しい(激のろけ)腰に腕を回したら解かれもせずさらにすごいのが来たと言われ。
「も。もういいわ。独り身には耳に毒よ……」
 なにしに呼んだんだっけ、と上條は後悔した。
「あ、あの、すみません。でもこんな話、とても他の人には言えません」
「言わない方がいいわよ……」
 上條は日本茶を出すことにした。
 それで一息ついて。
「それで、そんなに幸せなら、会社を休んだのは愛され過ぎて?」
「え!?」
 麻衣子は茶をひっくり返しそうな勢いで驚いた。
 ……どうも事情が分からない……
「いやあの、そのあの、……で、でーとに連れて行かれて、す、すごくあの人は高い店が似合ってたんですけど、私は違くて……遠い人って感じで目の前で吐いちゃって……」
「要するに、差を感じて引いちゃった、ってワケね」
「……はい」
 さてもおかしい。どうして上條は、自分があの課長の味方になるようなことをこれから言わなくてはならないのか。
「あなたさっき、あたしがどうしてあなたに興味を持ったのか不思議でならないって言ったわね」
「あ、……はい」
「人の縁なんて分からないものよ。学校で、クラスが同じになったって理由だけで会ったその日に友達になる。よくある話だけど、実はこれ、すごく不思議なことよ」
 麻衣子にもその意味が分かるのだろう。真剣に聞いていた。
「課長はあなたの、どんなところがいいって言ってた?」
「え? あの……その、……ドジなところが……」
 声が小さくて聞き取りづらかったが、聞き返すようなおろかなことはしなかった。
「で、でも! きっと、今まで周りにいなかったからそういう人が、も、……もの珍しくてだったんだ、と思います! 目が醒めれば、私なんて……」
「あたし課長のことなんてよく知らないけど、軽い気分でほいほい女をその場で食うような人だと思う?」
「く、食うって……」
「思う?」
「……思いません」
 政人に反発を覚える上條だって、会ったその日に、いかに政人が麻衣子を愛しているか分からされた。そんなものに理屈はいらない。それを麻衣子は知らないのだ。
「あなた、課長以外と、……えっちしたいと思う?」
「え?」
「裸にされて。脚広げられて、恥ずかしいとこ見られて」
「い、いやです!!」
 あんなこと誰ともしたくない、と麻衣子はぶつくさ言った。
「じゃ、答えは出ているわね」
 でも麻衣子は、自分で判断が出来ない。
「分かったわ。ちょっとバナナ買って来る。とりあえずそれ食べて、お風呂入って寝る。主任には言っとくから明日も休む。
 一日、考えときなさいよ。どうしたいのか」
 とても苦手な提案だった。でも、そうとは言えなくて、軽蔑されたくなくて口に出せなかった。
 麻衣子は上條が買い物に出掛けている間風呂に入った。追い炊き機能もないここでは申し訳なくて湯なんか張れない。シャワーだけ。
 後で上條に、湯を張ってもいいと言われたが辞退した。いつもシャワーだけだからと。それで、奥の部屋にふとんを二丁、なんとか敷いて眠りについた。
 翌朝、麻衣子の食事はまたしてもバナナだった。いくらなんでも体が持たないだろうと、上條はほかに食べられる物がないか訊いたが、麻衣子は思いつかず答えられなかった。心配で、自分も休むと言い出す上條になんとか頼み込んで出社してもらう。
 一日考えときなさいよ。
 そうは言われたが、どう考えたらいいものか。
 知らないアパートで独り、麻衣子は頭を動かさざるを得なかった。
 数時間考えたが、答えは堂々巡りだった。好き、これは間違いない。愛されてる、これもうぬぼれでもいい、間違いない。でも一緒にはいられないのだ。あんな素敵な人、他にいい人がいっぱいいる。自分じゃなくたっていい、そのうち目が醒める。これしか考えられなかった。
 おなかすいた……
 とはいえ入るのはバナナだけ。残り全部を食べて、そのまま居間でぼーっとすることにした。
 改めて部屋を見渡すと、確かに狭い。麻衣子はついこの間までもっと狭いところにいたのに、わずか数日で感覚が変わっていた。
 外は雨が降っている。
 そういえば独り。上條はいつ帰って来るか分からない。入社四年目、もう定時には無理だろう。
 今は午後一時だった。四時間以上ここで独り……
 外が暗いこともあり、麻衣子には、部屋の壁が自分に迫ってくるような気がした。暗鬱になる。
 こういう時は外に出て気分を紛らわすものだろうが、外は雨、傘を持っていない、鍵も持っていない、掛けてもらう管理人なんてアパートにはいない。
 テレビを観る気にもならず、ふとんの中でごろごろする気にもならず。さりとて、あんなふかふかの座り心地のいい、おおきなソファがあるわけでもなく。丸くて平べったい、言っちゃ悪いが安物の座ぶとんしかない。ここは自分のいるべき場所ではない。
 そう結論が出た時、電子音が鳴った。携帯だ。上條?
「はい、中川です」
「麻衣子」
 麻衣子を構成する言葉、それは迂闊。またしても知らない電話番号にほいほい出て。
「……どうして……」
 この男を愛していると、愛の行為に溺れたと言ったこの部屋で、どうして。
 ぶち込まれた体が、たったこれだけでじくじくした。
「飯、食っていないな」
 言われてすぐにおなかがグーと鳴った。聞こえやしなかったかとひやひやした。
「迎えに行く。今どこにいる」
「……来ないで!!」
 やっと気付いたが、今は午後。まだまだ就業時間中である。
「来ないで!! 仕事して!!」
「麻衣子に逢えないと気が狂う。仕事など手につかん」
「どうして!?」
 どうして、物珍しいだけの、みすぼらしい、相応しくない自分にこんなことを言うのか。
「物珍しいだけよ! 今だけ、目が醒めれば奇麗な人がすぐよくなる! 私なんてあなたに相応しくない!!」
「殺すぞ」
 ひえー。
 ……でもこの言葉をなぜか聞きたかった……
「迎えに行く。今どこにいる」
「い、いや。……そうよ! 実家に帰るの!!」
 そういえば行くところはあった。元に戻ればいい。
「俺も行く」
「ええ!?」
「お前の両親に結婚の許しを得に会いに行く」
 ひえー。
「今どこにいる」
「だ、だからその……あの、知り合いの家……」
「住所は」
「し、知らない」
 麻衣子はほっとした。これで政人はここに来られない。
「家の持ち主の名は」
「え」
「名は」
 おばかな麻衣子。答える義務などないというのに。
「あのその……上條……」
 そんなに珍しい名前でもない。これだけで分かる訳がないとたかをくくった。だが相手はもちろんあの政人。
「同じ会社にその名があったな。そいつか」
 ひえー。なぜ分かる。
「今から行く」
「えーだめだめ!! 待って!!」
 電話はそこでぶっつり切れた。
 おばかな麻衣子。その場ですぐ掛け返す、金を持っているんだからタクシーでどこかにとんずらする。なんぼでも行動しようがあるのに、なにひとつ思いつかなかった。
 ほどなくして電話は鳴る。番号は、最初から五桁目くらいはもう覚えた、政人のもの。
「麻衣子」
 声はドア向かいから聞こえた。もう、すぐそこにいるのだ。
「ここでドア越しにでかい声で会話をしてもいいが、近所迷惑だ。家の持ち主にも迷惑がかかる。電話に出ろ」
 出ざるを得なかった。
「……あの」
「麻衣子。ドアを開けろ」
「い。いや」
「開けろ麻衣子。来い」
「し。仕事中でしょう。戻って」
「麻衣子に逢えなきゃ辞めてやる」
「だめ!!」
「だったら来い」
「い。いや……」
「その分だけ、俺の仕事さぼりの時間は長くなるが」
 話の時間を戻す。仕事人間の、会社の期待を一身に背負ってあんな部屋を預けられた政人がどうしてここに来られたのか。どう小細工をしたのか。
 藤村は今朝上條から、今日一日考えるようにと言って麻衣子を部屋に残して来たことを聞いた。おそらく、女同士でしか喋れない夜の営みの会話もあったであろうが訊かなかった。野暮ってものだ。
 まあ、今日一日考えてもらおうか。そう思っていたら、上司から叫ばれるようにこう言われた。
「お、お前、またしてもあの今村課長からお呼びだぞ!? なにか新プロジェクトにでも参加しろってか!?」
 あらまー。来たか。
 違いますよ、単純作業の手伝いでしょ、また。そう藤村は言ってフロアを出る。守衛付き専用エレベーター前で上條と逢う。無言で上階へ。あの執務室の扉を開ける。
「揃ったところで用件だ」
 まあ、いまさら和やかな自己紹介の場を設けろとは言わない。これが自分達の間柄とやらだろう。
「さっき麻衣子に電話した。寂しさで泣いていた」
 もちろん大嘘。
「そ、そんなことあるはずない!」
 上條は反論したものの、思いつく節はあった。それしかやりようはなかったとはいえ、不安に駆られていると分かっている者を独りにしている。
「君の家の間取りは」
 なんて答えづらい。
「……二間」
「そんな狭い部屋に麻衣子を独りにしたのか」
 詰め寄られると返答出来ない。確かに甘い判断だった。昨日どうせ無理矢理早退したのだ、なぜ今日一日休むことをしなかったのか。いくら麻衣子に止められたからと言って、言い訳にはならない。
「君達には任せられん。責任を取れ」
「……どうやって」
 この会話、電話で済む。呼びつける必要があるのは分かった。なにをすればいい?
「今から麻衣子を迎えに行く、私のアリバイを作れ。君の家の住所は」
 上條は、個人情報をこんな男に言いたくなかった。
「○○区○○町、喫茶井上の近く。今日中に戻る、対処しろ」
「え、ちょっと待って!」
 と言われて待つ政人ではない。さっさと部屋を出て行った。
「ちょっと、ど……どうしよ」
「分からん……」
 二人が顔を見合わせると、早速政人のデスクの電話が鳴る。
「……マジ?」
 そんな経緯があったことなどつゆ知らず、麻衣子はこの家を出て行かざるを得ない立場に追い込まれていた。もともと決断も、考慮も出来ない。分かっていることは、出なきゃならないことだけ。でも、どういう顔をして逢えばいいのか。
「あ、あの……ここの鍵を持ってない……」
「預かって来た」
「え」
 もちろん大嘘。
「開けろ麻衣子。逢いたい」
 もうあとは、麻衣子のちっぽけなプライドだけだった。
 麻衣子に根性はない。怒りの感情が長く続くわけでもない。頑固でいられるほど強くもなかった。かちりと鍵を開け、ドアを開く。
 目の前には、愛し合っている男がいた。
「……政人」
 呼ぶとすぐに大人のキスが来た。思わず背中に腕を回すと、雨でスーツが濡れていた。
 政人のあの車に押し込まれる。言うしかなかった。
「すぐ会社に……」
「お前を家に送ってからだ」
「どうやって仕事を抜け出して来たの……」
「抜かりはない」
 その実態はああである。なお今頃、上條と藤村の二人は英語ですらない外国語の電話を受け七転八倒(用法間違い)中。
 ほどなくマンションに辿り着く。政人が麻衣子のシートベルトを外そうと手を伸ばすと、
「あ、あの、自分でします」
「殺す」
 ひえー。でも、言わなくては。
「あのあの、一人でやれるもん! どうすればいいの?」
 睨まれることもなく、
「ここのボタンを」
 言われて、その動作をよく見れば、簡単だった。あの時は相当あせっていたらしい。やっと自力で外す。次はドアを開けること。
「あ、あれ」
 開かない、どうやって開ければいいか分からない。その間政人はさっさと降りて、麻衣子の側のドアを開ける。
「自分でやるのに……」
 政人は答えず麻衣子を横抱きした。犬の麻衣子は政人の首に腕を回した。
 家に入るなり、玄関先で政人は言った。
「うどんなら食えるか」
「え」
 この時点で、早く職場へ帰ってと言うべきところをころっと忘れるおばかな麻衣子。
 うどん、うどん……温かい。消化にいい。そういえば好きだ。もっともこんな簡単な料理が自分には出来なくて、スーパーの安売り総菜にばっかり頼っていて。
「食べ……られる」
「好きな具は」
「えっと……えっと……溶き卵、ネギ」
「分かった」
 政人は恭しく、優しく麻衣子をソファにおろすと、即キッチンへ向かった。すぐに聞こえて来る調理の音。ほどなく漂ういい出汁のにおい。
 ここはもう慣れた空間だった。帰って来たと実感出来る。
 安心するとすぐにおなかがグーと鳴った。なんて正直な。聞こえていなければいい、そう思った。もちろん全て聞かれている。
 政人が箸ふたつ、どんぶりふたつを持って居間に来る。湯気立つそれに食欲がわいた。
「食え」
「うん」
 ゆっくり食べた。経験上、長く空腹にした胃にすぐものをかっ込むのは負担が大きい。熱かったし、ふーふー言いながら食べた。沁み入るようだった。政人も仕事用のスーツのまま同じもの、同じ容量のものを食べた。
「ごちそうさま。美味しかった」
 久々の食事は、とても満足がいくものだった。卵がふわふわして美味しかった。うどんの玉は、さらに消化のよさそうなきしめん。つゆは関西風。食べたことがなく、見た目味が薄そうだったが、食べるとその濃厚な出汁に舌鼓を打った。さいごの一滴までぺろりと平らげた。
「会社に戻る。帰ったら食材を買う、スーパーに付き合え」
 そう言われて、さっさと政人は出て行った。
 ……嵐みたいな人……