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 おこさま恋愛経験なしの麻衣子は、初めての後すぐ、くーくー眠った。
 男だったら、初めての女には普通朝まで寝かせる。だが相手は政人だった。大人のキスで麻衣子を起こす。もっとましな起こし方をしろ。
「ん、んー!」
 息が出来ずに目覚めさせられた麻衣子。
「起きろ麻衣子。今午後十一時だ」
 えっとー。十一時か。っていうかこの人、誰?
 麻衣子は寝ぼけていた。欲情の瞳で見つめる政人。
 え、っと……。
 それで、どうして体が疼くのか。きゅんとなるのか。おなかの中が熱い。
 いま何時? ここ、見たことない。
「ここは俺達の家、寝室。お前は俺のものとなり」
「ちょ、ちょっと待って!!」
 麻衣子はいつも混乱している。
「ひょっとして……かちょ? ひえー」
 麻衣子はない頭で考えた。無駄である。
「麻衣子。呼べ」
 ということは、呼ばなくてはならない。もはや麻衣子は犬。
「ま。さ。と」
 待てよ、呼ぶとあれが来るのでは……
 と言うことは、大人のキスの前に潰えた。
 政人の熱くて固くてでかいものを体のど真ん中にぶち込まれ、喘いで感じていきまくる麻衣子に、なぜか政人は説明していた。先に言え。
「麻衣子。俺はな」
 聞いちゃいない。
「お前を半年前、入社式で見つけた」
 初耳。
「どう見てもドジそうだった。よく入れたと思った。そしたら同じフロアに配属になった。見ていたが、ドジだった」
 まともな時に聞いていたら、麻衣子はさめざめ泣いただろう。
「昇進して上階に回され、逢えなくなって初めて、お前に恋をしていたのだと知った」
 かわいそうな麻衣子。そんなことは事前に言え。
「俺には立場がある。執務室以外のフロアにちょくちょく行くことは出来ん。仕事漬けでもあった。逢いたい、それだけ考えていた。みっともない片想いだった」
 かわいそうな麻衣子。
「半年間もだ。狂いそうだった。今日声を掛けたのは、朝すれ違ったからだ。今しかない、そう想った。言い訳をして逢いに行った。誰かにいびられていたな。クビにしておいた」
 しろしろー。
「やっとひとつになれた。麻衣子、目を開けろ。殺すぞ」
 犬の麻衣子はひぃひぃ言わされっぱなしな中、無理矢理目を開けさせられた。そこには恋に苦しむ男がいた。唐突にそうだと理解した。
 すると瞬時に、この男をどう想っているのかを自覚させられた。自分の中から、無い所から全く新しく、爆発するように生まれた初めての感情。
「ま。さ。と」
 想いが溢れる。
「すき……」
 女になった麻衣子が解放されたのは朝方だった。
「起きろ麻衣子。今午前七時だ」
 大人のキスで起こされる。息が出来ず麻衣子は目覚めた。もちろん寝ぼけている。
 目の前に、自分を愛して止まないと書いてある表情の男がいた。だからおばかな頭で考えた。無駄である。
「飯だ」
 男が麻衣子を横抱きする。ひえー。
 こういう時は、どうするものだっけ。もはや犬。反射的に腕を政人の首に回した。
 政人はそれが当然と、すたすた歩いて恭しく、優しく麻衣子をソファにおろした。
 この感覚には覚えがあった。目の前には美味しそうなごはん。麻衣子を見つめる政人。
 なにかをしなければならなかった。すぐに食べることじゃない。それは分かった。政人はテーブル向こうに座っている。
「ま。さ。と?」
 呼ぶとテーブル越しに大人のキスが来た。
 濡れるほど愛欲だっぷりされた後、
「食え。冷める」
 と言われた。政人はすぐに食べ始める。麻衣子はそれどころではなかった。昨日目覚めさせられた性の快楽に体が疼く。
「これを食ったらすぐベッドに戻ってやる。昼飯の後引っ越しだ。鍵を出せ」
 もうちょっと説明して欲しいもんだ。
「食え」
 犬の麻衣子は箸に手をつけた。食べるととても美味しかった。
「美味しい」
「そうか」
 二食連続してまともに食べるなど学生時代以来だった。麻衣子はほろりと泣いた。
 食べおわった後。
「あの……そういえば、鍵ってなに?」
「お前の住んでいた家の鍵だ。出せ」
 なぜ過去形?
 犬の麻衣子はいつの間にか持たされた自分の鞄の中から鍵を出して渡した。すると政人は麻衣子を抱き上げ寝室へ連れて行き、昼までだっぷりやった。
「起きろ麻衣子。今正午だ」
 大人のキスで起こされる。息が出来ず麻衣子は目覚めた。もちろん寝ぼけている。目の前に、愛し合っている男がいた。
「まさと……」
 大人のキスで欲情して、起きるまでにもう一発やられた。
 少し遅い昼食を摂る。三食連続だった。ああ私、もう吐かなくていいのかも。
 食べおわると、政人は寝室ではなくバスルームに麻衣子を連れて行った。新品の歯磨きを取り出し、歯磨き粉を付け麻衣子に渡す。自分の分も準備して、歯を磨き始めた。
 麻衣子はそれをきょとんと受け取ると、政人の真似をして磨き始めた。
 それがおわるとその場でやられて、寝室に連れて行かれて夕方までやられた。
 起こされる時時間を言われ、呼ぶと大人のキスをされるのは毎回だった。時間がある時、食事を並べていない時は寝室を離れる前一発やられた。
 夕食をとると、政人は空いた食器を持ってすたすたキッチンへ。
「あ、あの!」
「なんだ」
「食器、洗います! ひえー」
 必殺、殺気睨みが飛んで来る。怖かったが、最初からそれがデフォルトなのでちょっとは慣れて、麻衣子は立ち上がった。
 あれ? ふらふら……
「俺が中にいるな」
 その通りデス……
 政人はオーバーアクションなんて絶対しない。いちいちこっちを振り向いたりしなかった。
「座っていろ。歩けんまでやったし、これからもやる」
 犬の麻衣子は大人しく座った。向こうで食器を洗う音がする。なにかが間違っていると麻衣子でも思えた。
 片付けおわったらしい政人がこっちへ来た。目的など一つだろう。
 ところが違った。麻衣子を横抱きする。向かった先は寝室ではなかったし、バスルームでもなかった。政人の首に腕を回した麻衣子は、ない頭で考えた。もちろん無駄。
 今まで麻衣子が行ったことがない一室の中でそっとおろされる。政人は言った。
「お前の荷物だ。なくなっている物がないかどうか確認しろ」
 えっとー。
「引っ越した」
 いつの間に? っていうか、それなに?
「明日はデートだ。少し買い物をして映画。ホテルで飯、酒を飲んで部屋でやる」
 さっきの説明はあれでおわりですか?
 麻衣子の質問はすべて顔に出ていたらしい。ベッドの中で、朝どころか昼までやられまくった最中、多少は説明された。
 やられて起きて飯の土曜が過ぎ、日曜日の昼過ぎ。
「あの、確か……お出掛けするって言った?」
「デートをすると言った」
 無駄な考えを巡らせた後、
「デートっていうのは、あの、……する前にするのでは……」
「したことはあるか」
「ない……」
「確かに多少順番が違ったが」
 ああそう、素直に認めることもあるのね……
「気にするな」
 します。
 政人が食器を洗っている間、麻衣子はふらふら立ち上がって、ふらふら自分の荷物のある部屋へ向かった。初めての女がここまでやられて、よく歩けたものだ。
「連れて行く」
 背中から、大股で近づいて来る気配がする。
「あ、あのね?」
「なんだ」
「どう考えても、その……デート用の服はないのですけ……ひえー」
「ある」
 どうして。なぜ。いつの間に。
「これだ。シャワーを浴びて着替えて来い。一緒に入りたいが、やるから映画の時間に遅刻する」
 よく泣かなかった。麻衣子えらい。
 そんな麻衣子が押し付けられて着た物は、とてもタイトな、とても値段が張る、シックなスーツだった。高そうな下着をおそるおそる着ける。多分間違いなく、脱がされる。ストッキング、これって多分破られる……
 靴まであった。それはもうハイヒール。泣いてもいいですか。
 恥ずかしくてもバスルームを出ると、政人の格好だってそりゃあ凄かった。元々凄い人だった。いくらするか、目眩するだろう似合いすぎるスーツ。一部の隙もない。
 吐き気が戻った。
 元気のなくなった麻衣子の、その原因を気付かず政人は腕をからめて部屋を出た。
 金曜の夜と同じように、恭しく優しく車に麻衣子を乗せた。
 左ハンドル? がいしゃ? シートベルトまでして貰うって、そもそもこんな乗り方されるって。
「ど。ど。どこに行くの?」
「買い物」
 間違っても近所の安売りスーパーではあるまい。
 ほどなく車は停まる。恥ずかしくて、あんなことされたくなくて、シートベルトを自分で取ろうとするが、出来ない。政人は片手ですんなり外した。吐き気がした。
 降り立って、地上へ出るとそこはきらびやかな高級ショップ街だった。女の子なら誰もが夢見る魔法の目抜き通り。麻衣子はこんな所に来たこともない。寄り付こうとも思わなかった。
 自力で歩ける筈もなし。目眩がする。政人がいなければその場にうずくまっていた。
 連れられて行った所は宝石店だった。値札すらない。目をしばたかせることすら出来ない。
 政人がなにかを言っている。店員がすぐに反応をしている。ぼーっとそれを見ていた。
 麻衣子の左手を取る政人。なにかをしていた。
「これを」
「かしこまりました」
 薬指にすっと填められる奇跡の石。
「俺がいいと言うまで外すな」
 心が凍った。
 それから麻衣子はまたどこかへ連れられて行った。それしか分からない。次の場所はサイレント・ムービーが流れる映画館だった。実際音は流れていたが、耳には入らなかった。政人は麻衣子の左隣に座り、手を取って恋人つなぎをしていた。気付かなかった。
 次の場所は、前に想像した外国のレストランだった。もっとも、さっきの宝石店もそうだった。
 店員はなにやらな外国語しか喋らない。床の絨毯はふかふか、天井は高く、テーブルも椅子も店内のものはなにもかも一級品。連れられて、椅子に座らされた。政人は店員に外国語で答えていた。
 食前酒が運ばれた時、麻衣子は政人よりも前にそれを飲んだ。もう吐きたかったから。
 そして吐いて倒れた。
 麻衣子が目を覚ました時、政人が目の前にいた。
「まさと……」
 政人は麻衣子に、触れるだけのキスをした。
「ここ、どこ……」
「俺達の家、寝室だ」
「よかった……」
 麻衣子はまた目を閉じた。
「眠る前に聞いてくれ。麻衣子」
 そんな余裕、あるかな……
「済まなかった」
 ううん……
「あのね……」
 目をつむったまま、麻衣子は言った。
「なんだ」
「私、無理……」
「なにが」
「あんなとこ、いや……」
「分かった」
「政人の相手も、無理……」
「何故」
「だって……政人はあんなところが、いつものところなんでしょう……」
「違う」
「だったらどうして連れて行ったの……」
「男なら、惚れた女の前では格好をつけたい。いい服を着せて、いい宝石を贈りたい。いい店でいい食事を。いい酒を」
「私、そんなの要らない……」
「分かった」
「もう帰して……」
「ここが俺と麻衣子の家だ」
「違う……もう帰して……一人にして……」
「いつから吐いていた」
「別に……」
「初めから吐いていたな」
「別に……」
「俺の飯も、知らない所で吐いていたのか」
「ううん……」
「俺は麻衣子の助けにはならないか」
「ならない……帰して……」
「ここにいろ」
「誰か……奇麗な人、見繕えばいいじゃない……あんなところの似合う、政人に似合う美人さん……」
「なにを自暴自棄になっている。俺を好きと言ったな、あれは嘘か」
「うん……」
「嘘だな」
「もういや……もう……」
 麻衣子はやっと泣いて、眠った。
 麻衣子が目を覚ました時、政人が目の前にいた。
「麻衣子。今月曜の午前六時だ。起きられるか」
 麻衣子は首をふるふると横に振った。
「お前の上司に話をつけた。今日は会社を休め」
「帰して……」
「俺は夜九時過ぎにしか帰れん。飯は準備した、温めて食え」
「無理、どうせ吐く……」
「薬は飲め」
「なんの……?」
「夕べ医者に診せた」
 いつの間に……いつものことか……
「ストレス、プレッシャー……なに飲んでも効かない、ほっといて……」
 政人はキスで無理矢理麻衣子に薬を飲ませ、麻衣子の携帯を枕元に置いて家を出た。
 何時間か経った後、麻衣子は携帯のぴりぴりという音で目が覚めた。お父さん? お母さん?
 すがるように電話に出ると、
「やっほー中川さん。あたしー、上條!」
 だ、誰だっけ……
「覚えてないな?」
「はい……」
「同じ会社の、こないだまで同じフロアにいた、美人で優しい先輩の上條よ。思い出した?」
 そんなに簡単には……
「俺もいるぞー」
 またしても知らない人。
「俺だ俺。上條の同期の藤村」
 し、知らない。
「あんたのことは中川さん、知らないわよ」
「やっぱ?」
 男の人は、かなり軽い人らしい。ちょっとほっとした。
「今日会社休んだって主任さんに聞いたんで。無理言ってケー番訊き出したの。怒んないでよね」
「大丈夫です、怒りません……」
「弱々しい声ね。ちゃんと食べてる?」
「ちょっと、その……」
「今、なにだったら食べられる?」
「えっと……バナナだったら……」
「ある? 買って行こうか?」
「えっと……今、人の家にいるので……」
 麻衣子は気付かなかったが、麻衣子のパジャマをきちんと着させられていた。下着も込みで。
「じゃあ、台所に行ってご覧? なにか食べられるもの探してみ?」
 麻衣子は言われるまま、ふらふらと寝室を出た。夕べはやられなかったから、多少は余裕があった。
「あ、……あった」
 食材はたくさんあった。嫌いなものしか言わなかったのに。
「じゃ、食べる」
「はい……」
 携帯を置いて、皮を剥き食べる。いつもの朝食だ。ちょっとづつ、ちょっとづつ。
「食べた?」
「あ、はい……ちょっと」
「うん。もういいよ、無理しない」
 ほろりと来た。
「もう眠っていい。起きたら電話して?」
「あ……はい」
 麻衣子は携帯を畳むと、大事に持って寝室へ向かった。携帯を枕元に置くと安心出来て、眠った。
 上條と藤村がいたところは、会社ではあるが、二人の職場たるフロアではなく上階の役員室。現在は今村課長室である。
「あんた、本当はなにをしたのよ」
「君にあんた呼ばわりされる覚えはない」
「ふざけるなよ」
 話は遡る。政人の恋心に気付いていた人物がいた。藤村だった。
 藤村は早い話上條に気があった。同期で、少しずつ温めていた恋。だから政人のも気付いた。もっとも一瞬だった。
 この会社は大会社とはいえ、つい先頃まで危ない状態にあった。立て直すよう陣頭指揮を命ぜられたのは課長に就任したばかりの政人。出国後は一度しか日本に戻れなかった。だから政人が言ったように、麻衣子にほとんど逢えない期間が長く、約五ヶ月続いた。
 その一度、一日だけ戻った七月のある日、政人が藤村達、つまりは麻衣子のいるフロアに来た。執務室以外のこんな場所に何故、どうしてだと皆思ったが、誰しも政人をじろじろ見続けることなど出来ない。それは藤村もそうだった。そんな政人がふと流した麻衣子への愛情の視線を、偶然捉えた。
 今村課長ならさっさと話をつけるだろう。他人の恋路より自分のこと。藤村はそう判断した。
 だが気になって、翌日も様子を見ていると、麻衣子の様子はとても彼氏が出来たというものではなかった。見間違いだったか、とも思った。
 それが九月。会社を立て直した政人が帰国したあの金曜日、麻衣子が政人に呼ばれたと聞いた。藤村は思う、そうか、やっとか。
 月曜、麻衣子が会社に出て来ない。はっきり、愛され過ぎてだなと思った。上條からの情報を聞くまでは。
「あの子、金曜日吐いていたって。それでだわ。あたし、主任さんに訊いて来る」
 おかしい? なぜ金曜日。
「待て上條。金曜のいつ吐いたって?」
「え? えーと……帰り際、とか」
 帰り際? 待てよ、中川は午後に課長と逢ったはず。だったらその時はもうラブラブで、吐くなんておかしい。
 妊娠? おいおい、いくらなんでも早すぎる。それは違う。
 なぜ逢った後に吐いた?
 訊かなければならない。一度も喋ったことのない後輩のために。
 それで藤村は上條を連れこの上階に来た。ここは役員室、選りすぐられた者以外、決して近寄ってはならないことを社員の誰もが知っている。
 藤村はなにも知らない上條に、知っていることを歩きながら話した。すぐに上條は怒りをあらわにした。
「あの子、今村課長なんか怖いって言って吐いたって!」
 合点がいった。麻衣子は脅され、関係を強要されたのだ。
 もはや二人に、肩書きの重さ、違いによる恐怖感などなかった。課長室の扉をなんの約束もなくばたんと開ける。
「用件は」
 眼前の人物は、二人を全く見ないで言った。
「中川さんの件よ」
 上條は臆せず言った。藤村は彼女にまた惚れた。
「話せ」
「確かにあたしはペーペーだけど、その言い方どうにかならない?」
「ならない。話せ」
 政人は仕事をしたまま。二人を一瞥もしない。
「あんた、クズね」
「そうか」
「その言い方にじゃないわ」
「知っている」
「中川さん、金曜の夜に吐いたって知ってる?」
「もっと前から吐いていたことを知っている」
 そこですかさず藤村が割って入った。
「待て、いつ知った?」
「藤村、どういう意味……」
 藤村は上條に答えず政人に言った。
「あんたは中川に金曜から会ったな。俺の見立てじゃ、あんたが知ったのは早くて日曜だ。違うか」
「見立てとは言わんな。勘か」
「そうだ!」
 藤村は政人に殴り掛かった。政人はそちらを一切見ず、仕事の手も止めず、慣れた動きで躱した。
「私に傷が浮いて、首になるのは君達だ」
 言い返せない二人に、政人は着席をすすめた。そして電話を二度掛ける。まずは藤村の上司に。
「今村だ。君の部下を借りた。昼前に返す」
 次に上條。同じことを言った。
「随分……手際のいいことで……」
 やり手だとは分かっていた。このまま、感情のまま突っ走ったって通じない。
 今は自分達がどうというより、中川救出作戦が最優先だ。藤村はそういう視線で上條を見た。もう四年も同期をやっている上條、心得た。
「私には時間がない」
 上條はいらついた。
「なによ、あたし達となんて話したくないっていうわけ?」
「違う。時間を取られるとその分麻衣子に逢えない」
「……よく、分かったよ」
 上條は反論したが、あの視線を見た藤村はある程度納得した。麻衣子の名前を呼んだ、その声には間違いなく愛情がこもっていた。
「昼までに喋りおえろってことだな」
「違う。君達と面識のない私が仕事中長時間君達を拘束するのは不自然だ」
 こりゃまた……難敵だ。
「じゃあずばり本題を」
「そうしてくれ」
 この言葉、今村課長にとって最大限に譲歩した言い方だ。ついさっき会ったばかりでも、二人にはすぐに分かった。
「あんたと中川の間に、この三日間、なにがあった」
「金曜、麻衣子を家に連れ帰って夕飯をつくって食わせた。全部食っていた。愛していると、今村麻衣子になれと言った。数時間後、好きと言われた。土曜、三食全部つくって食わせた。その日の午後に引っ越しさせた。後で俺の飯を知らん所で吐いたかと訊いたが、それはないと言われた。日曜はデートに連れて行った。婚約指輪を買って填め、映画を観て、ホテルのレストランに連れて行って夕飯をとろうとしたら吐いた」
「なんで吐いた」
「後で聞いた。高い店なぞいやだと。そんなものは私に相応しい女を見繕って連れて行けと。
 倒れて気を失っていたが、医者に診せた。もちろん不完全だった。薬だけ貰った。今朝訊いたらストレスとプレッシャーでなにを飲んでも効かんと言った。
 もう帰りたいと。一人でいたい、放っておけと」
「……もういいわ」
 途中で遮ったのは上條だった。
「こんなあたし達だって、あんたの肩書きにはびびってるの。それを、世慣れないと誰が見ても分かる中川さんに?」
「肩書きで迫ったつもりはない」
 藤村がすかさず言った。
「迫った? やったのか」
「そうだ」
 上條が席を立つのを制する。
「世慣れない中川に、会ってすぐやったのか」
「そうだ」
「首になってもいい。あんたを殴ってやりたいよ」
「なぜしない」
「あんた何モンだ? なんださっきの動きは。プロボクサーか?」
「近いことはしている」
 藤村はあきれた。代わって上條が訊いた。
「あんた確か、東大出だったわよね」
「そんなものと麻衣子は関係ない」
「違うわよ。勉強に仕事にプロボクサー? 普段一体なにやっているわけ?」
「麻衣子と関係ない話だ。時間がない」
「……中川さんはいまどこにいるの」
「私達の家だ」
「今から行くわ」
「君達と麻衣子の面識は」
「あまり、ないわ」
 上條の語気が弱まったのを見た政人、藤村にも訊く。
「君は」
「……会ったこともない」
「逆効果だ」
 ぐうの音も出ない二人。
「……じゃああんたが会ってやれよ」
「仕事だ。待て」
 がたんと席を立ち、敵わなくとも殴ってやろうという二人を政人は制した。
「私が自分のために仕事を抜け出したと知ったら麻衣子は泣く。泣き止まん」
 なにも反論出来なかった。
「じゃ、じゃあ……どうすればいいのよ。確かに面識はほとんどないわ。でもちょっとは会ったこともあるし、話したこともある。そんな状態と知って、なにもしないわけにはいかないわ!」
 八方塞がりだと、藤村でも思った。
「麻衣子に電話を」
 なんと。策があるのか。
「私が電話しても出ん。君達は随分優しい。その通り、思った通りを麻衣子に」
「……いい、のか」
「君はだめだ。会ったこともないなら」
 確かにそうだ。
「ところでさっきから君、君言ってるけど……あたしは上條で、こいつは藤村。呼べないの?」
「女性の名を呼ぶと麻衣子が嫉妬する」
 のろけられている……
「私がいて電話しにくいのなら席を外す。麻衣子の電話番号は」
 そうして、さっきの電話がある。
 あの電話の後眠りについた麻衣子は数時間後、緩慢に起きた。目の前には愛した男がいなかった。
 時計を見る。午後三時。腹は空いたが食欲がない。
 なにかしろって、言われたような……
 よく思い出せなかった。