19

 二人で夕ご飯を一緒に。食べながら、アルフレドが言った。
「なあ。今夜、デートをしよう」
「今夜?」
 シャルロッテは口の中で咀嚼をしていた。食べおえそうな時だった。全部をありがたくいただいてから、返事をした。
「夜に出掛けるってこと?」
「そう」
「……はい」
 考えてみれば、夜とは微妙な表現だし、それを言ったら添い寝もしているし、シャルロッテは自分は一体なんなのだろうと思った。
「なにか、今夜は特にいいことがあるの?」
「ああ」
 食後に寒くないよう厚めの上着を着て、発着場へと向かった。アルフレドに手を引かれて。

「わあ……!」
 その夜、水平線から、赤銅色の満月が昇った。
 海が染まる。
 まだ昇り切らぬうちに、もう一つの月も昇った。物知りの年寄りが言うには、昔、月は一つで、もう一つは元は火の星と呼ばれていた。長い年月をかけ、この大陸のある星に近付き、まるで月が二つあるかのように見える宵もあるのだと。
 それが今夜だった。
「それで、黒竜?」
「ああ」
 アルフレドは常の煌めく黄金竜でなく、鱗映えのする黒竜で飛んでいた。シャルロッテは理由を訊かなかった。雲一つない夜だった。

 重なった二つの、離れて行く天体が、時間を掛けて中天を目指し昇って行く。眩くて、星さえも瞬かない。
 二人が寄り添い、重なる姿を、赭い月だけが見ていた。

 翌朝、シャルロッテは起きるか起きないかのまどろみのなか、額に触れる感触で目覚めた。
「アルフレド」
 常の後ろからではなく、もう服を着ていて、今しも出掛けそう。そんな様子だった。
「出掛ける」
「うん」
「二週間は掛かる」
 それは夕べより強く重なり、シャルロッテの言葉は飲み込まれた。

 ビンクス夫人もほぼ同じ期間来ないという。途端暇になったシャルロッテ。なにかをしていないと落ち着かない。ただ時間が過ぎるのを待っていられない。人はこれを貧乏性という。
「城奥に行かれますか? それともこちらで?」
 以前シャルロッテは、大王がいないなら家にいようと思ったことがある。しかし。
「……ここにいます。習字でもします」
 あの日から、執務机には二つの椅子が用意された。近臣の主と、近侍の主と、それぞれの体格に見合った見事な意匠の椅子。いつぞや乗った馬車の椅子よりも身体に合っていて、何時間座っても疲れない。
 左隣の空いた椅子。同じ意匠で、大きめの寸法。
 少しだけ視線をやって、あとは習字に取り掛かった。そんなシャルロッテを護りながら、近侍は全員こう思っていた。
 万が一左隣が空位となれば、貴女様がそこに座るのですよ……。

 いつもなら茶を淹れる時間、朝と昼の食事の中間時。机の上の大量の書類とはまた別に置いてある魔法石から、紙が吐き出された。
 そろそろ集中力も切れたところだったので、シャルロッテはすぐに気が付いた。
 大王様宛ての手紙だ。
「あの、これ!」
 シャルロッテはすぐに紙を裏返しにし、ずっと背後で付き従う近侍に伝えた。魔法石による大王宛ての手紙とは、かの緊急案件だと思って。
「はい、シィさん宛ての、大王様からのお手紙ですよ」
 近侍はにこりと笑顔で答える。
「え?」
「我々は後ろを向いておりますから、どうぞお読みください」
 そう伝えた近侍は三人とも、言った通り後ろを向いた。
 シャルロッテはぽかんとして、裏返した紙を見つめた。確かに紙とはいっても小さなものだし、一瞬見た限りでは何行も細かく記載されていなかった。
「わたし宛て……?」
「そうです。大王様がお持ちの魔法石から、ここに置かれたシィさんの魔法石だけへの、親展です」
 近侍は後ろを向きながら、シャルロッテに説明をする。
「こんなのを送るって、大丈夫なんですか? その、向こうの状況は」
「さて? 我々も、現状をこの目で見てはおりませんから。さあ、お読みになってください」
 言われた通り、読むことにした。
“変わりはないか? 俺は○○にいる”
 簡素な内容だった。変わりもなにも今朝逢ったではないか。夕べだって。
 中身を確認すると、次にシャルロッテは字の達筆さに感心をした。言った通り、きちんと習ってのものだ。自分が今、そういうことをしているので、少しだけ分かる。一体いくら書き直し続けただろう。
「シィさん、読まれました?」
 近侍が後ろを向いたままというのも、珍しい。そして、こちらを向き直す気配は一向にない。
「ええ、はい」
「お返事を書かれたらいかがです?」
「返事」
 なるほど手紙をもらったら、返事をすることもあるだろう。シャルロッテは遠くの知り合いなどアルフレドを含めほんの僅かなので、今までやったことがない。やってみるのもいいだろう。
「じゃあ、……って!」
 習字の下手くそさがあきらかになるということではないか。いけない、それはいけない。
「あ、あの、帰ってから直接熱烈に申し上げます!」
「そう仰らず。二週間はお帰りになれませんのよ? 帰ってからも、現在も熱烈にお返事をなさったらよろしいのでは?」
 シャルロッテはこんな簡単な引っ掛け問題に引っ掛かり、必死になって隠していた下手な習字を暴露させられるはめになった。字などきれいでなくても生きて行けると言い切って僅か数日で自分の言葉の重さに押し潰された。
 荒い鼻息、深い溜め息。シャルロッテは意を決して返事を書くことにした。幸い、いや災いにして紙とペンはたくさんある、なにせ執務机なのだから。
 変わりありません。仕事をしてください。
 この簡素以下の文面を書き直すこと五度。なんたる下手くそと自分を罵った。一度目は最初の一文字の入りで躓いて紙を破り捨てた。二度目はありませんが上手く書けなかった。してくださいに到達したのは四度目だったが全体的に気に入らなかった。五度目はもう、息を吸って一気に書き切った。
 見られたくないから二つに折って。
「か。き。ました」
「お疲れ様です。さあ、その魔法石に紙を押してください。吸い込まれます」
 魔法石とはかくも便利なものだ。もう一々蒸し返したくはないが、これらをあの特権階級は占用していたのだ。まったく恨めしい。
 言われた通りにすると、紙は石へと消えて行った。
「はあ……」
 大仕事を遣り遂げたシャルロッテ。一汗をかいた。ロケット砲以来の緊張だった。
「おわりました」
「お疲れ様です。我々はこの間を掃除いたしますので、シィさんはどうぞ続きを」
「掃除、はあ。わたしがやりますか?」
「いいえ、人には人の役割がございます」
 含蓄のある言葉を言い、近侍は後ろを向いたままそれぞれの行動を取った。
 掃除といっても絨毯敷きの間。大きめの魔法石が音もなく這い、掃除して回る。人の手が必要なのは水場であったり、寝室のリネンを替えたり。いずれ三人はシャルロッテがなにかを言ったらすぐに駆けつけられる場所にいつつ、なにかをしていますよ、という姿勢を見せながら業務を行っていた。シャルロッテは見事なものだなと思った。本当に人には、それぞれ役割があるのだ。
 さて習字の続きを、と思っていると、魔法石の手前に紙が落ちていた。
「ん?」
 さっき石に向かって押して、消えて行ったはずなのに。吐き出された?
“いい字だ。これが練習の成果か?”
 立派な楷書で、先ほどとは別の内容の手紙が届いていた。アルフレドからの手紙だった。
 成果か、とは。シャルロッテが午前中、なにをしていたのか知らなかった模様。
「いい字……」
 褒められた。
 シャルロッテは人生で初めて、人様に褒められた。
 手紙を何度も見て、何度も読んで、何度も眺めて、確認をした。なにをしても内容は変わらなかった。胸におし抱いた。今朝の、夕べの唇のように、感覚が蘇り、身体深くまであたたかくなった。

 いったんシャワーを浴びて、服を着替えたシャルロッテ。風呂場を出ると、少し早めだが昼食の準備がされていた。
「二週間は長いですね。お寂しくはありませんか?」
「はい!」
 シャルロッテはまたしても、自分の言葉の重さに押し潰されることになる。

 あれから返事をせず、どう返したらいいか分からなかった。また、時間を取らせたくなくて、手紙を返す機会を失ってしまった。あちらからはなにもなし。
 ただ待つ身となった。
 あれから近侍は執務机周辺には寄らず、掃除と称して主を護っている。
 こうなれば、せっかく褒められた習字をするしかない。もっと褒められたいではないか。アルフレドならそうしてくれる。
 一心不乱に書きながら、ちらちらと石を見た。何度見ても、石はなにも吐き出さなかった。

 昼食と夕食の中間に、休み時となる。近侍は、シャルロッテがそこまで気が回らない間に茶の準備をして、二人掛けの椅子のある場所から声をかけた。
「シィさん、お茶にしましょう」
 そう言われた時、シャルロッテの手はもう止まっていて、気が付けばずっと石ばかりを見ていた。
「あ、はい」
 そう、そうよ、この石の先の人は忙しいの。いけない、なにを期待しているの。
 シャルロッテは席を立ち、近侍の元へと向かった。
「今日は、先日話していた、南国の苦い飲み物に挑戦してみませんか?」
「挑戦。わたしが淹れるんですか?」
「いいえ、まずは飲んでいただきます。かくいう私は南国の出でして、淹れるにのは慣れております。もしお気に召したら、淹れ方をお教えしますわ」
 寒村の出と言った女性とは別の女性が申し出た。シャルロッテは了承して、飲んでみた。
「うぅうっ!」
 苦かった。なんとか一口だけ飲み込むシャルロッテに、近侍の三人はやはりと笑った。
「こ、これはちょっと……嗜好品って言いましたよね? 楽しむ? なにを?」
 いつもの茶とあまりの違いに、まさかそうとは言わないが、まるで泥水かと思った。
「慣れると、一日に何杯も飲んでしまうのです。やみつきになります」
「信じられない……」
 シャルロッテは二口目はつけなかった。
「慣れですよ、慣れ。シィさんだって、大臣や将軍、補佐の入室にはもうとっくに慣れたでしょう?」
「とっくに。それは、まあ」
 そんな単語が出て来るくらいには、確かに慣れた。理由は一つ、誰一人としてシャルロッテを相手にしないからである。他人事と割り切ったまでだ。
「人間、待つこと、慣れること、感覚を鈍くすることも必要ですわ」
 シャルロッテは、言われた言葉を咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだ。どれも、この城では必要なことだった。
 これこそ、今までと変えるべきこと。
「……はい」
 素直に言葉が出た。今はそういう時だ。そう思った。
「大王様に、シィさんからお手紙を出してみては?」
「でも……ん」
 言い返そうとして、止めた。
「……はい。して、みます」
 文面などなにも考えられない。ただアルフレドなら、なにを言っても、間違ったら教えてくれるし、優しく叱ってくれる。悪いようにはしない。昔から、アルフレドだけは別だった。
 苦い豆のことはいったん忘れ、大王の執務机に戻ったシャルロッテは、文面を考えた。
「変わりないかって、それしかないよね……」
 室内に散る三人には聞こえないよう、小声で呟いた。そう、あれはアルフレドが村を出て行ってから二週間後のこと。