16

 その晩、夕食の後、シャルロッテはお風呂でアルフレドの筋肉を丁寧にほぐしていた。
 本人はそのつもりだが、見よう見まねで専門知識はまるでなし。効いているかどうかは、あやしいときちんと自覚はしていた。
 湯船で手の指、足の指を一本一本揉んでいく。アルフレドはなにも言わない。目を瞑っているだけ。
 敵はもういないというのに、見事に鍛え上げられた肉体。朝、腰に添えられる利き手。
 シャルロッテは未だ、アルフレドが眠りに入るその時を見たことはない。

 翌朝目を覚ます。大王はいない時の方が多い。今朝はすぐ後ろに寄り添っている。これがいいことなのかどうか、シャルロッテには分からない。
 ただ、許された時間を。
 そっと触れる。あたたかい。
 骨格から違うのだ。手のひらの大きさ、指の長さ、太さ。
 千年虐げられた奴隷達の、ありもせぬ夢を叶えた、なにものをも砕く、大いなる手。
 そっとなぞる。
 この時間を許されてもいいものなのか、未だに分からない。

「おまえ、お洒落とやらはしないのか?」
 シャルロッテは朝食中、アルフレドに言われた。今日のスープも絶品だ、こぶしを握り締め心の中で調理人さんに頭を下げた。
「お化粧をして、おかめさんになれってこと?」
「あのなあ……。俺はそういうことは分からんが、すりゃいいじゃないか。分からんが」
 男のアルフレドの言い分も分かるが、分からないのにすすめるというのもどうかしている。
「誰に見せるっていうのよ」
「アホ。俺だろ」
 そういえば。
「おかめさんです」
「アホ。そういう時の家庭教師だ。ビンクス夫人の経歴を当人に直接訊いて来い。まさに文化人だぞ」

 言われてすぐの当日午後。ビンクス夫人にシャルロッテがそう尋ねると、
「まあ……それは買いかぶり過ぎですわ」
 と、夫人は言った。シャルロッテは思った。そうか、こういう時はこう返すのが礼儀なんだな。習いはしたが、使い所はないだろう。
「大王様の仰せなので、本日は禁令を破って少々申します。お許しください」
 夫人はカップを置いて話し出した。

 その昔、令嬢方にはそれはそれは、たいそう厳しく躾けた。
 金と権威のある殿方の目に留まるため、肌を手入れし磨き上げ、流行の化粧を施し、流行の髪形にして流行のドレスをまとい、裾に隠れてほんの少ししか見えないかかとの高い靴を履きこなし、普通にしていれば一切見えない下着類にも金を掛け。
 上手くいけば手紙のやり取り。魔法石で瞬時になど送らなかった。手間と暇と金をかけて人の手に渡らせてやり取りをした。取り次ぎの侍女が嫌がらせをして、手紙を破るのも一連のやり取りのうちの一つだった。
 これを総じて「駆け引き」と呼んだ。何百人にも及ぶ奴隷の手が必要だった。特権階級のこれぞ特権。
「これ以上は申しますまい。シィさん、視線が厳しいですよ。おお痛い。老人にはきつう御座います」
 シャルロッテは“ぬふあうえお やゆよわほへ”“qwerty uiop”などと独り言を呟きながら怒りを堪えた。
「お洒落なんかしません。絶対に」
「そう仰らず。禁令を破ったのは確かに悪かったですわ。ですが、それをやれというのではありません。市井の、大陸の民の女性達がしている普通のことをなされば? と申し上げているのです。
 もう、敵はいないのですよ」
 シャルロッテは怒りを抑えた。自分がなにを喚いても、もうなんにもならない。そう、敵はもういないのだ。
「皆働いています。こんな歳でこんな暮らしをしているのはわたしだけです。これ以上、なにも望みません。下働きをせよと言うならそれには従います」
「人には人の生き方があります。皆のやっていることを他の皆が全てやらなくてはならない決まりはありません。
 シィさんらしく生きてください」
「下働きがわたしらしいんです。きちんと分は弁えています」
「誰がお城にと望みました? その方のために。そうは思われませんか?」
 シャルロッテは清楚なスカートを握り締めた。
「誰があの方に直接触れられるとお思いで? 誰かを呼んだということも、私は最初あり得ないと叫んだものですよ。女性の陰すらなかった、その暇さえありはしなかったのに」
 シャルロッテのスカートのしわはよりいっそう深くなった。
「……化粧をしなければ、大王様のそばにはいるなということですか」
「そういう意味ではありません。ご自分を貶めなさいますな」
「ここにいていいか、分かりません。でも、大王様が望む期間はいます。化粧を塗るなりなんなりしてください」
 シャルロッテの周囲にいる者は、そう言われて嬉々として化粧道具を出す女性達ではない。では、今日も歩きましょうか。それだけを言った。

 夕食前に、王の間に戻った。二人掛けの椅子の、右側に寄って座った。
 今日の予定も、明日の予定もシャルロッテには分からない。大王の予定は立て込んでいる。“大王様が来れば即座に解決、来なければ未解決”よく聞いた言葉だ。
 城勤めとして一番の役職であろう、宰相がいないのもそのためだ。宿将と呼ばれる三人は全員が政治はからきしと言い張っている。うち一人に至っては、大王に倣って肩書きを上げることすら嫌がり、現在でも一兵卒で通している。
 扉が開かれた。
「ただいま」
 大王様のお出ましだ。いてくれる、自分がいられるその時までお世話をしよう。望む通りにしよう。シャルロッテは強く思った。
「おかえり」
 アルフレドが隣に座る。
「夫人から手紙が届いた。おまえを怒らせちまったって」
「怒っていない。わたしが勝手に癇癪を起こしただけ」
「それを怒らせたっていうんだよ」
 アルフレドがシャルロッテの額に触れる。ほんの少しのことのはずなのに、じんわりとそこがあたたかくなる。
「……結局、経歴は聞けなかった。なんかね、言うつもりはないみたい」
 わたしなんかに。そう続けようとすると、
「夫人は解放記念日後、弟子をとって教育をしている。何人もの女性達に教えている。短期間で人が変わったように立ち居振る舞いが変わる、さすがだ。そういう評判だ。
 言えば自慢に聞こえるからだろう」
「わたしは、立ち居振る舞いなんてなにも……」
「夫人は三年くらい前から、体調がな。それまでは時間もきちんと取ってほとんど毎日やれていたんだ。
 おまえだって、歩き方も変わって来たよ。見せてもくれない他の成果だって、上がってきたんじゃないのか?」
 額の感触が、いつまでも残った。

 後日、ビンクス夫人は何故あの時経歴を言わず禁令を破りシャルロッテを怒らせたかを言った。
「懺悔をしたかったからです。もう私も歳、長くはない。言って、自分だけが楽をしたかった」
 その言葉すらも懺悔だった。
「奴隷の方の誰もが、楽など生涯ただ一度もしなかったというのに。
 こんな私が文化人として生かされました。せめて後進の指導をと……大王様にああ仰られた時、二つ返事で答えました。
 シィさん。どうかわたしの自己満足のためにお洒落をして。大王様とお出掛けをして」
 痩躯の夫人の頬に涙が伝う。若い頃はさぞかし鋭気を発し、令嬢方を厳しく躾けたことだろう。その面影は、もうなかった。

 その日はアルフレドは朝からおらず、ビンクス夫人も来ないという。とたん暇になったシャルロッテ。朝食後、二人掛けの椅子の右側に腰掛けると、それ以外なにをすればいいか分からなくなった。
 近侍がにこやかにやって来て、お茶の支度をする。
「シィさん、今日はどうなさいますか?」
「おすすめを言って下さい。わたし、分からないんですよ」
 自分という確固たるものを持っていれば、シャルロッテはとっくに結婚し子どもを産んでいたことだろう。
 だが、それがなかった。していいかどうかも分からなかった。
 自分がない。
「でしたら今日は、お話をしましょうか」
 あの、一緒にずっと歩いた、最初に会った近侍が言った。
「お話」
 まさかそう言われるとは思わなかったシャルロッテ。てっきりどこぞに行こう、化粧を塗れ、だと思っていたのに。
 王の間から計四人以外が出て行く。近侍は先日城内を見て回った、あの三人だけとなった。
「お城住まいには、慣れましたか?」
「ああ、なるほどそういう話……まあ、確かに」
 シャルロッテ・ロケット砲が発射されていた当初、あの頃は全身の発汗で干からびるかと思ったものだ。
「でも、いかにも威圧感のある男性ばかり入室なさって。ああいういかにもお偉い人達に慣れた、という意味ではありませんよ」
「偉い人達など、もうこの大陸のどこにも存在しませんわ」「それを仰るなら、大王様が一番偉いのですよ? 言うとこの頚が飛びますが」
 近侍が右手首を固定し、水平に、首のそばで左右に振る。表情はにこやかなままだったので、シャルロッテは冗談だと軽く流した。
「大王様とは昔からの知り合いだからです。ここに入れる人の肩書きとは、やはり誰もが高いものなのでしょう?」
「いいえ、一兵卒から来ますよ」
「そうなんですか?」
 シャルロッテには、誰がなんだかほとんど判別がつかない。あえて言うなら目の前の女性達のように、体格がよければ武人かな? と思うだけだ。だが誰もがいかつい威圧感のある者達ばかり。とても相容れない。
「住むこと自体には、慣れましたか?」
「はあ、まあ」
 慣れるどころか不自由がない。それが慣れない。
「お困りのことはありませんか?」
「不自由がないのが慣れません」
 近侍三人はにこりと笑った。最初はこの笑みを、答えてくれない意地悪な笑みと曲解したものだ。どうもあの頃から、それは間違いだったらしい。だがなにも答えてくれなかったのは事実だ。
「これをしたい、というご希望は?」
「大王様に、いいように過ごしてほしいですね。住んで寛げと言われましたが、本人に言い返してやりたいですよ」
 無理でしょうけれど。そう思っていると、
「なにぶん、責任者でいらっしゃるので。少なくとも我々武人は、シィさんを呼ぶまでご本人がこの城に住んで寛いだ姿を見たことがありません。
 今はいかがですか? ああ、仰らなくて結構ですよ。お二人の時で、存分にどうぞ」
 二人の時と言われても。「おまえ」「アホ」ぐらいしか会話はない。
 まさかこれを人様に言うわけにはいかない。いつもの会話を聞かれたら? たとえば厳しかったという当時のビンクス夫人などに聞かれようものなら折檻をされそうだ。手枷まで嵌められそう。
 近況を訊かれながら、大丈夫です慣れました、不便はありませんと答えながらシャルロッテは、やりたいことを思い付いてしまった。しかし。
「さあシィさん、仰ってくださいませ。どちらに行かれようと思われました? 遠くでしょう?」
「いつでも報告の用意は整っております。さあ」
 何故分かるとシャルロッテは思った。答えは簡単、学がないので平然とした表情が出来ないからである。
「仰らないと会議が始まりませんよ?」
「大王様みたいな脅しを言わないでください……」
「これで通じる、というお達しですので」
 もう、気心の知れた四人と大王様の会話だった。シャルロッテは素直に白状をした。知らず海に二度行ってしまったので、今度は大陸で一番高い山、聖山キュロスをぐるりと一周りしたい、と。単純である。

「おまえ、飛行類に乗る楽しみを覚えただろう」
「どっきーん」
 大王専用発着場にて。
 きらきらと煌めく飛行体が徐々にその姿を顕す。派手だ。シャルロッテにはそれしか表現のしようがなかった。アルフレドは豪華華美豪奢をことごとく嫌うわりに、飛行類に対してはそうは思っていないようである。
 さらりと抱き上げられて騎竜し、浮遊感もなく、気付けばもう雲の上だった。

「わあ……!」
 またも世界を一望出来る。陽に輝く海、雲、藍色の空。
 楽しみを覚えたと言われればその通りだ。もう、くせになる。やみつきだ。乗せてくれるのがここまで激務の者でさえなければ。
 城から最速で目的地へ。キュロスは連峰のひとつではなく、単体の山である。聳え立つ美しさ、凛とした険しさから、登山の人にとっては聖山とされる。
 近付くと、黄金竜はその速さを緩め、周回軌道へと入った。
 陽、空、海、雲、山、陸、河。
 全てを一望出来る。雄大、そうとしか言いようのない眺めに、シャルロッテは声もなかった。

「……ねえ」
「ん?」
「もし、ここで、急いでどこかに来てって言われたら、どうするの?」
「おまえも野暮だなあ」
 お互い、言いたいことは分かっている。ただ、会話をしたくて、一番どうでもよく、かつ現実的なことを言ったまでだ。
 シャルロッテは斜め後ろを、アルフレドは身を乗り出してそちらを。二人の距離は、抱きしめ合うより近くなる。
 見つめ合って、しばし。
 アルフレドの方から視線を外した。ゆっくり、ほんの少し。シャルロッテもそちらを見た。
 黄金竜がもう一騎、顕れていた。
「……嘘」
「複騎を呼べないと誰が言った?」
 そんな言い方をされるなんて。だったら。
 アルフレドはまた別の方向を見る。そんな、まさか。
「……嘘」
 また黄金竜が一騎、顕れていた。
「おまえは、乗ったままで……」
 アルフレドは、今度は下を見た。いや、見ろと視線で促した。のぞき込むと、確かにまた別の一騎が顕れていた。
「俺は別な奴に移って秒速10kmで飛ぶ。全騎遠隔制御可能だ。もう少し俺を信用しろよ」
「わ、分かったからしまって。能力枯渇とかあるんでしょ、ね、しまって」
 これだけの光景を見せられて、さらにこれだけの存在が煌めいている。シャルロッテにはあきらかに制御不能だった。
「はいはい。酔ったか?」
「たぶん」
 ゆっくりと飛行体は消えて行って、二人が乗る黄金竜一騎だけとなった。
「落ち着け」
「むり」
「いきなりだったか?」
「うん」
「吐くか?」
「かも」
 それでも、まだ、見ていたいと思った。