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 シャルロッテが家庭教師ことビンクス夫人という老婦人と会合をしたのは城奥、大王が家と言った場所で、午後だった。
「初めまして。シャルロッテと申します」
 挨拶をし、頭を下げた。
「初めまして。ビンクスと申します」
 夫人も礼を返した。凛とした佇まい、立ち居振る舞い。同じ動作をしたはずなのに、元奴隷でしかないシャルロッテとは全く違った。

 近侍が二人分の茶を淹れる。
 シャルロッテは二人掛けの椅子、対面に座る夫人は一人掛けの椅子。二つの椅子は同時期に同じ職人が作ったものだろう造形だった。
 なにを言うべきか。いや、言われるのか。こちらが先に言うべきか? いや、目の前の女性は歳上、目上なのだ。どうすれば礼儀にかなうのだろう。
 それさえも知らないシャルロッテ。学のなさを痛感した。
「シィさん」
「はいっ」
 条件反射で返事をした。夫人は僅かに表情をほころばせた。
「そう呼ぶように。話し相手となってください。これが大王様からのご依頼です。
 大王様はシィさんに、どのように仰って私(わたくし)を紹介されました?」
 これが学校の先生というものだろうか。痩躯の夫人からは今まで見たことのない教育者的な威厳を感じた。
「家庭教師と……」
「まあ。ほほ」
 微笑を浮かべるさまも、会話の流し方も、シャルロッテとはまるで違う。寒村出では、まさかあるまい。王の間に入室している男達とも全く違う。会ったことのない人種だ。
 アルフレドは「学ぶに遅いということはない」と言った。だとしたらビンクス夫人は十年前、なにかどこかの学校に入ったのだろうか。
「そう、家庭教師……そう」
 夫人は流れるような手つきで茶を飲んだ。シャルロッテは自分の身体の動き一つ恥ずかしく思えた。

「シィさんも、仰りたいことがたくさんあるでしょう。それは分かります。
 私も大王様に接したことのある者のうちの一人。すると必ず多くの疑問質問がわくものなのですよ」
 シャルロッテは顔を上げた。その通りと、この言いようならこの人とは話が合うと思った。振る舞いはまるで違って、ろくなマナー一つも知らなくて、恥ずかしくてカップを置く音まで気を付けなければならないが。
「大王様。それがシィさんと私の共通点。ですので、あの方のことをまずお話しましょう。
 政治・経済・軍事・福祉・医療・歴史・文化その他。全てに造詣が深く、あまりにも多忙極まり、影武者が何十人もいるのではないかとまことしやかに語られているお方です。
 現実は一人のようですが……そう言われていることはご存知ですか?」
「はい」
「ほとんどの特権階級は、武器を所持していてもせいぜい飾り刀。その者達を滅ぼすのに、攻略戦と称される期間を二年も設けた理由はご存知ですか?」
「いいえ」
「私も全てを知っているわけではありません。
 シィさん。私は、特権階級と呼ばれていた側の人間です」
 二人のカップが、美しく揺らめいた。

「悪魔城。
 そう奴隷に呼ばれていたあの城で、攻略戦が始まった時の特権階級側の言い分を申しましょう。また遊びが始まったらしい。それだけです」
 シャルロッテは両手を膝の上に置き、ただ聞くことだけをした。
「子爵や伯爵の所持する奴隷がいなくなっているらしい。侯爵もだ。いや公爵も。
 城館にチリほこりが溜まるようになって来た。リネンが出て来ない。風呂が洗われていない。新しい服が出て来ない。食事が出て来ない。
 段々と、奴隷がいなくなっていることに皆が気付いていきました。そして思いました、また新しい奴隷を補充すればいい」
 シャルロッテのこぶしに力が入る。握力がなくて、ただ不快な汗がにじみ出るだけだった。
「魔法石だけは残されていましたので、明かりにも暖にも苦労はしなかった。この程度はいつものことと……
 あとはあっという間。私達のいた城館にも大王軍が突入しました。あの辺一帯、一斉でした。そして一瞬でした。
 家族を喪うのは……」
 夫人の痩せぎすの手には、血管が幾筋も浮いていた。
「最後に館に入って来たのは、皆が若造とだけ罵っていた人物でした。あの腰の物の造詣は忘れられない。抜刀することもなくこう言いました。
 ビンクス夫人。あなたの才能を後世に活かしてくれ。
 そう言われて私は攫われ、小ぶりではありますが独り住まいには充分な、悪魔城の外にある館を与えられ、今日まで一人生き長らえました。
 先日、その人物と十年以上振りに会いました。誰がどう見ても堂々たる、歴史に名を残す名君でした。
 あの腰の物は、変わらず同じ位置にありました。あああれで、私がお教えした後宮の方々全てを手にかけたのだと……。
 ビンクス夫人。よかったら、私と共に住む者の話し相手となってください。
 そう言われて私は今、ここにいます」
 夫人の両手もまた、膝の上に添えられていた。

「何故、侯爵夫人であった私が生かされたのか。
 理由はのちに分かりました。同類の者がかなりいたからです。結論から申しますと、貴族であっても専門家、文化人ならば生かした。だそうです。
 なにせ突然独りになりまして……寂しくて、泣いて泣いて、……隣近所をはしたなくもお邪魔しに行ったのです。会えば同類であることはすぐに分かりました。
 足枷の痕がありませんから。我々には……」
 おまえに家庭教師をつける。そう言ったアルフレド。
「類は友を呼ぶと申しましょうか。私の住まいの周辺一帯は痕のない者達の館ばかりでした。それまでは直接の面識こそないものの、名を聞けばああ、あの、という高名な方々ばかり。書家、裁縫職人、料理人、俳人、音楽家、教師、技師、博士、医療関係者、設計士、鍛冶職人……
 大王様が我々を生かした理由はただ一つ。文化はひとたび断絶すれば、二度と復活は出来ないから。
 私は、そうですね……敢えて言うなら、教育者です。
 幾人ものお嬢様方をお育てし、後宮にお送りしました。今となってはこの言いざまも許されるでしょう……お育ちの悪いお姫様に、秘密裏にお教えしたこともございます」
 お嬢様とは貴族の令嬢のことで、お姫様とは皇族の未成年の皇女のことを言った。

 大王は解放記念日以前よりたくさんの法律を作り、施策した。その中には禁令という、遣ってはいけない言葉、作法を記した法律がある。
 奴隷。皇。貴。官。官の対義語としての民。様。嬢。姫。身分にまつわる一切。誰かに頭を下げること。誰かを下に見ること。他多数。

「あの時までの、奴隷のみなさんにはもう意味もない、当時の王朝の歴史。常識、立ち居振るまい。そういったことをお教えしては参りました。確かに、私は名乗れば有名ですと、あなたに育てられた女性はそうだと分かるほどですとは、お世辞をいただきはしました。
 ですが、こんな私が文化人など……なにをもって。ひとおもいに、夫や娘達と一緒にあの世に送ってくださればよかったものを……」
 ビンクス夫人は言うだけのことはある、洗練された所作で涙を美しい刺繍の布でぬぐった。
「つい、私の愚痴を申しました。もう止しましょう。話せば長くなるだけ。
 大王様の話に戻します。今言った、生かされた文化人はざっと三千人ほどはいるそうです。その者達と大王様は、全て直接会話をしています。私だけではありませんでした。三千です。言うは簡単、実行にどれだけ時間がかかるか分かりますか? あれだけの法律を一人で打ち立て続けたのに?
 私は、だからあの方を腰の物で判別するようにしているのですよ。あの剣はこの世に一つと聞いておりますから」
 それで、夫人はさきほどから腰の物と連呼していたのだ。
「腰の物、なら……」
 シャルロッテは重い口を開いた。
「決して手放しません。お風呂場でも、寝室でも。外しても必ず手の届くところに置きます」
「そうですか。これは今日会ったばかりの方に断言出来ます、外すお姿を拝見出来るのはシィさんだけです」
「大王様のお話を続けてください」
「以上です。私が大王様とお会いしたのは二回だけ。あとは噂と法律でしか存じません」

 近侍はずっと、片膝をついて二人を見守っていた。そして、話に一段落がついたとみるや、もう一杯いかがですかと茶をすすめた。シャルロッテはそうお願いをした。
「シィさんのお話、いえ、疑問質問をお聞きしましょう。私の方が歳上とはいえ、ぺらぺらと言いたいことだけ先に述べてしまい申し訳ありませんでした。
 お互い、少し冷静になりましょう」
 シャルロッテの手のひらは、じっとりと汗ばんでいた。近侍から熱いおしぼりを渡されたので、ありがたく汗を拭いた。

 お茶に一口つけてから。
「大王様は、どうしてわたしをこのお城に呼んだのでしょう」
「その理由を、直接お訊きにならなかったのですか」
「……聞いたような、聞かなかったような」
「直接、単刀直入におたずねなさいませ」
「忙しい方ですし……」
「でも、一緒にお風呂に入って、一緒の寝室だったのでしょう?」
 こういう話になると、そこは女性。女の目で、シャルロッテは見られた。
「あ、あの! いえ、そういう意味ではなく……ただ、マッサージをして上げたり、単なる添い寝をしただけです」
 シャルロッテとてあの時は緊張していたのだ。ああ見えても男だし、つい先日襲われ疑惑を勝手に持ったし、男とは狼とも聞いていたし。
 しかし、アルフレドは冷静で、普通だった。風呂の後も、起床後も、食事の後も政務を堂々かつ鷹揚に行った。
「だけ? 失礼ながらそれだけを聞けば、もう理由など充分にお分かりかと思われますが?」
「あのいえ、そうじゃないんです」
 確かに風呂と寝室が一緒と聞けば、誰もがそう思うかもしれない。しかしシャルロッテは自分が、女としての魅力を買われて城に住めと言われたわけではないとよく知っている。
「わたしとアル……っと、大王様は単なる、小さい頃の知り合いでして」
「単なる? 仰ることが分かりません。今、大王様の諱を口になさいましたね? それとて意味がお分かりでしょう?」
 シャルロッテは本当に、夫人の言っていることが分からなかった。

 夫人は言う。
 諱(いみな)とは、大王が滅ぼした王朝よりさらに昔の、とうに廃れたはずの習慣のこと。

「主君または親しか呼ぶことの出来ない真の名のことです。
 十歳以上の大陸の民に主君も親もいません。ですから、大王様を諱でお呼び出来るのは貴女様だけです。
 そして、貴女様の名もまた諱です。ここにいる我々が貴女様を呼び辛くしている理由は、これでご理解いただけましたか?」
「分かりません。それが一番訊きたいことです。
 わたしは大王様とは本来なにも関係がないんです。本当に、単なる小さい頃の知り合いというだけ。いっとき同じ村にいただけなんです。
 どうしてわたしなんですか?」
「どうしてあなたはその歳まで独りだったのですか?」
「わたしの努力不足です」
「全く違う。そうですね?」
「いいえ」
「小さい頃? 二十年前ですね。大王様が志を立てられ、始まりの地を出立したあの日までのことでしょう?」
“やっつけようぜ!”大王がそう言ったとされる地には碑が建てられている。
「それから十年間は奴隷だった、独り身もなにも関係ない。いつ我々に殺されるか、ひたすら怯えていたでしょう。
 ですが解放記念日からは? あなたは大変可愛らしい、お美しい。男は放って置きませんよ。努力不足? 笑わせないでくださる? 努力をしたと見れば分かりますよ。僭越ながらこの才能で私、生かされましたので」
「違います」
「周囲に男は寄って来た。でも、私のそばにいるこちらの方々が悪い虫を追い払った。そんなところね?」
 近侍は笑みを絶やさなかった。
「悪くない虫もいた。あなたに何度も寄って来たでしょう。分かりますよ?」
 シャルロッテは初めてビンクス夫人の目を見つめた。
「最も多忙を極める至尊のお方は大陸の民全てを救うため、今日も明日も空を舞う。だからあなたは今まで独り身。
 答えなど、もうお分かりになっていらっしゃるじゃありませんか」

 夫人からの話はもう終わったといっていい。シャルロッテは本来の、家庭教師の話をした。
「夫人のその、所作というんでしょう? 品のある言葉遣い、動きの美しさ。素晴らしいです。わたしには逆立ちしたって出来ないです。それを習いたいです。
 大王様のお言いつけに背いて学校に行きませんでした。学がなくて恥ずかしいです。教養と礼儀作法を教えてください」
「そういうことなら、喜んで」