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 むかしむかし。
 わるいおうさまがいましたが、やっつけられて、大陸は平和になりました。
 それから約十年後、物語は始まる。

「シィ、あんたクビ」
 この一言で、シィは十年以上勤めた食堂をクビになった。

 解雇を宣言され、全てがなくなったと思ったシィがすぐ次に言われた、食堂のおかみさんの言葉。
「ウチの店よりいい条件で雇ってくれるってさ!」
 なんの前触れもなく今日来店した、ちょっと体格のいい見知らぬ女性がそう言ったという。さらには雇う場所まで案内をしてくれると。
 確かに、間違いなく「いい条件」だ。
 そうは言ってもクビはクビ。シィは、ふらふらとした足取りで退職金、いやさ退職物を手に持たされ、すぐに近所の長屋住まいへ帰った。

 荷物はわずか。それを、退職物こと風呂敷に纏める。引っ越しをするのだから必須の物だ。ありがたい、正直に思った。荷物など数点の衣服と小物のみ。それを包む必要のない人生を送って来た。こんなこと、思い至らなかった。
 十年以上も人付き合いがあれば、誰だって色々とある。シィと食堂のおかみさん、おやじさん。三者の人間関係は決して薔薇色などではなかった。それでも、今一番役に立つものをくれた。
 風呂敷を持ち、長年住み続けて来た長屋を後にする。
 ちらとだけ後ろを振り返った。いい女などではない、未練をさらりと断ち切れない。見慣れた光景、いつもと同じ。
 これからはもう、それもないのだ。
 自分というものを固めて来たなにかが喪失して行く。感傷と言われればそれまでの感覚。

 約十年前。
 この巨大な一つの大陸には、人口比率としてはほぼ全てといっていい被支配層の奴隷と、ほんの僅かな支配層、この二種類しかいなかった。
 支配層は皇族と爵位持ちの貴族のみ。特権階級と呼ばれ、大陸の真ん中に築かれた広大な城に住んだ。
 中間層はいた。平民だ。だが数百年前に特権階級の頂点、皇帝によって奴隷に地位を堕とされた。上級、中級と呼ばれる奴隷は元は平民の出が多かった。
 他の、大多数の被支配層である奴隷は特権階級によって卑しき者とされ、皆等しく足枷を嵌められた。重労働を強制され、虐げられ、搾取され、酷使され、殺戮の限りを尽くされた。奴隷の権利はただ一つ「産めよ増やせよ」
 労働は恥辱と言い切り、蔑視し思うままに略奪しながら奴隷を必要としたのは誰あろう特権階級だった。
 千年の長きに渡る怨嗟の渦を溜め込んだ奴隷達はついに立ち上がり、反乱を起こした。革命は成立し、その日は解放記念日と呼ばれた。
 被支配層が悪魔城と罵った城は歴代の皇帝達が溜め込んだ巨万の富を元に国家行事として取り壊され、現在は更地。雑草が生えるのみである。

 シィが住む場所は悪魔城からはるか遠く、海も見えない寒村だ。それでもあの日から、景気は明らかに感じられる程良かった。治安は更に良かった。だからシィは女一人、勤めていられた。
 歩き続けるシィ。前を行く女性は優しげな笑みを浮かべて後方の、決して隣に並ぼうとしないシィの様子を時折窺う。
 わたし、……どこへ行くのかな。
 十年以上前に壊してもらった足枷の痕が、こういう時はよく疼く。

 シィの年齢はもうすぐ二十五歳。奴隷時代とは関係なく、完全に行き遅れである。
 以前の適齢期は早く、十五歳とされる。あれから十年も経った。
 解放記念日前後の混乱期だったから? 周囲の女性は誰もそんな言い訳をせず、晴れて自分の意思で結婚をした。今では三人以上の子どもをもうけた者がほとんどだ。長屋には同年代の女性がいたが、まず夜間には戻らない。気がつけばいなくなっていて、後で聞けばとっくに結婚をして引っ越した、という話ばかりだった。
 ねぐらと職場を行き来するだけだったのはシィのみ。他の、普通の女性達は普通の努力をした。だから皆家族を得られた。
 奴隷時代、誰も自分の親を知らない。兄弟姉妹も知らない。それでも皆ちゃんと努力をした。しなかったのはシィだけ。気が付けば長屋で最年長となっていた。
 こんな、とうのたった女の次の職場といったら?
 期待など出来ようはずはない。シィは食堂で皿洗いと床拭きなど裏方の下働きしかして来なかった。店のおもてにはおかみさんが立った。毎日汗だくで働き、長屋に戻って倒れるように寝ていただけだ。そんな自分がどこでなにを必要とされる。
 目の前の女性は笑みを絶やさない。
 しばし歩いた。

 一時間ほど歩いたところで、気付けばとある館が見えていた。目の前の女性ははっきりとシィに向かって振り向き、「どうぞ」という意味だろう、建物を指し示した。
 ここか……。
 思いもよらず立派な館だ。田舎の村からこのくらい歩けばこういった建物があることくらいは聞いている。そうか、ここか。ぞうきん掛けのしがいがあるなとシィは思った。
 招かれるまま玄関前に立つ。
 ……待って?
「あ、あの、裏口はどちらですか?」
 シィはこれまでの、真っ黒な人生の道程を思い描き落ち込みながら歩いていたので、今更気が付いた。ここは見るからに表玄関だ。下働きが汚れた靴、年季の入った服で上がっていい所ではない。
「こちらからどうぞ」
 女性が口を開いたのはこれが初めてである。
 いくらなんでも説明が足りない。しかし口答えをしてはならない。これが奴隷と下働きを計二十五年、学校へ行ったことのないシィが持つ数少ない知恵うちの一つだった。
 ここは心を入れ替えて。女性に開けてもらった玄関で、一歩も入らないままこう言った。
「初めまして、シィと申します、どうかよろしくお願いします!」
 最初は挨拶が肝心。いい歳をした女の最低限の知識である。きっぱりと頭を下げ、その姿勢を保つ。
 返事はなかった。

「まあ……お嬢様。そのようなこと、なさらないでくださいませ。どうぞお入りになって。お疲れでしょう?」
 館内から別な女性の声がする。頭を下げたままシィは真っ青になった。後ろにお嬢様とやらがいる!
「申し訳ありません!」
 シィはその姿勢のまま斜め後ろに後ずさった。またしても足首の痕が強く疼いた。
 すると今度は下から声がする。シィが頭を深々と下げているのにだ。
「お嬢様、どうかそのようなこと。お疲れでしょう? 中に入ってお休み下さいませ」
 これまた体格のいい、別の女性から言われた。これで長屋を出てから三人目だ。片膝をつき、シィよりも頭(ず)を下げ、明らかにシィに対して声を掛ける。
 おかしい……よね??
 大陸全土の奴隷達の足枷全てに破壊命令を出し、わるいおうさまをやっつけ、同時に無職となった全ての民に職を、家を与え、学校制度を定めるなど数々の善制をしく、かの偉大なる大王様には悪いが勉強が大嫌いで学校に行かなかったシィ。考えた。
 お嬢様とか、……なくなった言葉、よね??
 しかし、実際は三人の体格のいい女性達に囲まれ入館を促されている。抵抗したところでこの体格差、一対多数。シィは言われるまま泥靴のまま館内の人となり、言われるまま二人掛けと思しきたいそう立派な椅子に腰掛けた。

 目の前で、前出の三人とはまた違う、しかし体格のいい別の女性がお茶の支度をしている。
「お疲れでしょう?」「長く歩かせてしまい、申し訳ありません」「もうこのようなことはありませんので」「お茶などいかがですか?」
 ねえ教えて。ここ、どこ?
 揃いも揃って体格のいい女性ばかりが何人も。そんな人達がですますでさえない敬語を遣う。解放記念日より、もうそんな言葉は飛び交う機会もなくなっていたというのに。
 シィの思惑などなんのその。女性は慣れた手つきでお茶を淹れ、目の前の立派なテーブルに静かに置いた。
 飲めということだろう。それはいい。血と泥を飲み続けた奴隷時代に比べれば毒でも美味かろう。問題はそこではない。
 なぜ? わたしに? お嬢様ってどちらに?
 いやしくも食堂に勤める者として、出されたものはいただくのが最大の礼儀と心得ている。一口つけてからシィは言った。
「お嬢様とは、どちらにおいでの方ですか?」
 しかし久しぶりに聞く言葉である。今どきどこにいたのだろう。さすが寒村ではない見知らぬ土地、なんでもありだ。ご挨拶をしなければ。
「お嬢様のことでございます」
 周囲にはもうすでに五人はいた。全員、シィを見て声を合わせてそう言った。

 時刻はあと一刻で昼、という頃になっていた。
「お嬢様、汗を流しませんか? お風呂をどうぞ」
 シィのコップ、いや流麗なカップが空になってから周囲の女性達がこう言った。
 飲みながら状況を把握する。この館には、シィが主(あるじ)と呼ぶべき人はいない。お嬢様と思しき十代前半の若くて綺麗で身分の高い女性もいない。おそらく、さっきまでこの館は無人だった。
「お風呂というと……あのその、わたしは一体どこへ? 主様はどちらに?」
 あくまでお伺いを立てているというのに、周囲の体格のいい女性達はにこりと笑顔を浮かべるだけで答えはしない。
 返事はせず、いい歳をした女の胃にものを入れて身を清める。ならばその後は一つしかない。
 シィは、立ち上がって女性達の言う通りにした。言われるまま風呂に入り、髪を洗ってもらい、湯船につかってマッサージを受ける。上がると髪を乾かしてもらい、足の指一本一本まで拭いてもらい、いいにおいのする香油を身体に擦り込まれる。水分を失っただろうと、氷の入っていない果物味の青汁までいただいた。
 ここまでされれば、後は一つだ。
 今までの人生で全く纏ったことのない、ひらひらの下着類および清楚なワンピースに着替えさせられたシィは、先ほどの二人掛けの椅子をすすめられた。目の前には、何皿もある立派な食事が用意されていた。
 シィのいつもの食事など言うまでもない。勤務先が食堂だったので、食事は二食ともそこのおこぼれ。朝食などはただの水だった。朝に弱かった。
 またも人数の増えた女性達は、シィに食べるよう笑顔を向ける。目的が分かっていたので、心が冷えた。
 スープから口をつけた。シィはろくに料理が出来ないから食堂のおかみさんにこっ酷く叱られ、作らされたことがある。コーンスープ、たった六文字のこの一皿を編み出すのがどれだけ大変か。それが目の前にあるのだ。
 シィは仰々しい作法など知らない、とにかくスプーンでいただく。
「美味しい……!」
 いつぞや自作したダマだらけの物体とは月とスッポン。大いに感動した。
 これなら悔いはない。
 おそらくシィはこれより来る、どこぞのヒヒジジイの餌食になる。こんな歳の女にいい条件の雇い先などそれしかない。
 これまでか。
 今までどれだけ性奴隷とされた先輩女性達を見て来たことだろう。足枷を嵌められた脚を開かされ、孕まされ、出産後殺された、毎日見た先輩達。その、膨大過ぎて記録にも残らない一覧の一名となるだけだ。
 もうすぐ二十五歳。今までよく生きて来られたよね?
 解放記念日までは女奴隷の平均年齢など二十歳を超えたかどうか。あの時まで女の役割とは雑用・慰み者・出産、それだけだった。
 全てを変えてくれた大王様には、感謝しかない。
「……ごちそうさまでした」
 シィの声色が暗いものだとは、周囲も分かったのだろう。
「お嬢様、お疲れですね? 申し訳ありません。どうぞお休みになって下さいませ。今日はもう移動はいたしませんから」
 そうでしょうね。ここで用無しですもんね。
 またも言われるまま、寝室に連れて行かれた。これまでか。
「お着替えになって、お休み下さい。起こしませんから」
 部屋の扉が閉められても、明かりの灯る魔法石でほのかに足下は見える。便利なものだ。

 魔法石とは元々、特権階級だけが占用していた多種多様の、便利ではあるが消耗品の石のことだ。灯りや暖房となる石などがあり、その昔は悪魔城だけが煌々と輝いていた。大王はこれらの材料技術者を悪魔城攻略戦の前に確保大量生産し、一斉に大陸の民に最初は無料で配布。その後は一度も料金を上げず格安で販売をした。

 シィは言われるまま夜着に着替え、ベッドに入ると魔法石に触れた。室内は真っ暗になる。
 これまでか。長かったなあ人生。
 足枷を外してもらえたあの時まで、どうやって生きて来られたのだろう。もう一度やれと言われたら殺されていた。周囲は皆殺された。寝ても覚めても重労働、足枷、鎖、血、泥、死体死臭の毎日。
 それに比べれば。先輩達、よくこんなことが出来ましたね。心底尊敬をします。今そちらへ行きます。
 シィは暗闇の中、まばたき以外まぶたを閉じることなく、館の主の入室を待った。

 とても長い時間が経過した後、やっと扉がそっと開いた。どうでもよかった。
 真っ暗なのはすぐ確認出来ただろう。
「お嬢様……お目覚めですか?」
 気配で分かったらしい。
 だが、どうだっていいではないか、そんなこと。だからシィは言った。
「主様は、まだですか?」
 室内の様子を窺っていた、体格のいい女性の背後はもう夕暮れのようだった。
「あるじさま? どなたのことで……」
 なにを白々しい。
「偉い人が来て、わたし、襲われるんでしょう?」
 すぐに魔法石により室内に明かりが灯り、わらわらと体格のいい女性達が十人以上は入室して来た。全員が一斉に膝をつき、シィに向かって蹲った。
「申し訳ありません!!」

 シィはそっぽを向いて、女性達の言い分を耳にした。
「そのようなこと」「間違っても」「歩かせてしまい申し訳なく」「お休みいただきたく」
 その他山ほど謝罪の言葉が並んだ。
「あなたたちも女奴隷でしたよね。だから分かるでしょう? わたし、なんの説明もないから普通にそう思っただけです。謝る方がおかしいです」
 シィは至極真っ当なことを言った。いくら学がなかろうと、これ以外の正しいことがあるのなら言い返してほしいものだ。
「返す言葉もございません」「その通りでございます」「どうかお怒りをお収めになって」
 女性達は先ほどから頭を下げ続けたまま。
「おかしいじゃないですか。確か大王様は、もう誰も、誰にも頭を下げる必要はないって言っていましたよ」
 全てを変えた大王はこう宣言をした。もう身分はない。偉い者はこの大陸のどこにもいない。
 すると女性達は全員頭を上げた。しかし膝はついたまま。
「わたし、どこのどちら様にお仕えするんですか」
 これくらいは答えてほしいものだ。
 すると女性達は互いに顔を見合った。なんたることか、これにさえ答える意思が全くない模様。
「答えてくれないなら、もういっそ殺してください。奴隷は皆そうされましたよね。宙ぶらりんは嫌です。さあ早く」
 するとまたも女性達は一斉に頭を下げ謝罪の言葉を口にした。シィは深い深い溜め息をついた。ベッドで上半身を起こした状態での遣り取りだったので、女性達に見えないよう、疼く足首をさすった。
 結局、ごめんなさいの返答だけを聞かされてシィは夕食をとり、またもお風呂でお嬢様扱いをされ、寝室へ向かわされ、朝まで決して誰も入室しません、と言われ休まされた。
 なんなの一体……

 翌朝、シィはぼんやりと起きた。目が覚めると、ここが長屋でないことは分かった。寝具の質が月とスッポンだったからだ。物語のようにここはどこわたしは誰? とはならなかった。ああ本当にヒヒジジイは来なかった、程度だ。
 優雅な朝ご飯をいただかされる。スープの美味さに唸っていると、
「お嬢様。よくお休みになられました?」
 と訊かれた。
「はい」
 条件反射で、かつ無気力に答えた。パンが焼き立てだった。初めて食べたがすぐにそうだと分かった。
「昨晩は本当に申し訳なく……」
「そうじゃなくて、質問に答えてください」
 また一斉にずらりと頭を下げられるのは嫌だった。あれではまるでシィの方が悪者のようだ。
「かしこまりました。実はこれから数日は、陸路でゆっくり移動をと思っていたのですが、仰せの通りお答えすべきです。朝食後、空路で本日中に目的地へ向かいます」

 この大陸は広大で単一のほぼ地続きである。海辺に少々島はあるもののどれも小さく、人は住んでいない。移動をしたいとなった場合、陸路・海路・空路のいずれかとなる。旅賃は陸海空の順に高くなる。
 陸路は歩けばタダ。ただし広過ぎるため、どんな暇人でも徒歩で大陸を制覇した者はいない。
 海路は徒歩より早いが移動出来る場所は海と深い河だけ。
 残るは空路。どこへでも行ける。だが旅賃が高い。飛行類と呼ばれる、人が乗れる大きな鳥や竜を召喚出来る能力を持つ者の絶対数が少ないからだ。
 理由はこの能力の危険な欠点にある。大変に便利であるが、だからといって無理をして、召喚をし過ぎたり飛び過ぎたりすると、能力が枯渇してしまうのだ。それは、空を飛ぶことを知ってしまった者にとっては死に近い。更には実際に死に至ることもある。
 この欠点は誰もが持つ共通のもので、奴隷はもちろん特権階級であっても召喚出来ると口に出す者は稀だった。
 支配層は自らが飛ばずとも奴隷に命令をすれば事足りた。城外は汚らしい奴隷がうようよいるという程度の認識だったので、滅ぼされた者達は悪魔城から一歩も外に出なかった。
 大王は飛行類を召喚出来る人間だった。一度に数騎を呼べる者さえ稀なのに、黄金竜という、当時でも大陸に五人しか呼べる者がいなかったという最速の竜の他、ありとあらゆる飛行類を召喚し仲間を集め大王軍を形成し、ありとあらゆる法律を作り、大陸の隅々まで全て同時に施策した。
 現在、空路は飛行類を召喚出来る者達で構成された空軍と呼ばれる大王軍のひとつの軍隊が主に担っている。
 飛行類には小さな鳥から大きな竜まで様々な種類がある。二人乗りの鳥がスッポンならば黄金竜は月。空軍の組織は完全能力制、スッポンしか呼べない者はいつまで経っても一兵卒。旅賃ももちろんスッポンだ。皆、能力を枯渇させないよう無理のない距離だけを飛ぶ。

 軽くこれらを説明されるとシィは、
「そんなお金ありません」
 と言った。
「まあ、お嬢様。我々が金銭を要求するとでも?」
 シィはジロリと女性達を睨む。
「大体、あなたがた。誰も名乗りませんよね。わたし、シィっていいます。そこらの寒村の、とうのたった女です。そう呼んでください」
 最初からこれを言いたかった。サラダが美味い。
 するとまたしてもあの笑顔だ。つまりは答える気がないということ。
「鳥の上で殺されるんですか?」
「違います」
「答えてくれないとそう思います」
「違いますので。空路はお嫌ですか?」
「おいやというか、したことがないので不安です」
 飛行類が空を飛んでいるのは何度も見た。しかし自分が乗るとなれば話は別だ。シィは自分がスズメに乗っている姿を想像した。寒村の行き遅れの空想力などこんなものである。
「お嬢様は毎日のお仕事でお疲れのご様子。一週間ほどは馬車とお休みを繰り返し、それから空路と思ったのですが、答えが聞きたいとのこと。大丈夫です、大きな竜で我々も一緒に参りますから」
「われわれ。……本当に、名乗らないんですねえ」
 シィはほとほとため息をついた。何人いるかも分からない、この体格のいい女性達は誰も問いに答えない、名乗らない。美味しいご飯は出る、風呂は丁寧、寝室には誰も来ない。一体これはなんなのだろう。
 不安で仕方のないシィは陸路、馬車を選択した。想像するに、ごとごと揺らされるのであろう。
 食後、館を出ると、確かに馬車はあった。
「これですか?」
「はい」
「こちらの方々は?」
 馬車をずらりと取り囲む、体格のいい女性達。
「我々の仲間です」
「われわれさん達は何人いるんですか?」
 女性達はにこりと笑った。

 シィは馬車の中にある、たいそう立派な椅子に座っていた。長時間乗ってもほとんど疲れない造り。隣にはベッドもあった。いずれも一切揺れない。
「そういうサスペンションの魔法石ですので」
 訊いても答えてくれない素敵な女性達はそう言った。
 旅中、おやつの時間といっては馬車を停め、お昼といってはどこぞの館で停め、午後は館内でまたしてもお昼寝。今度は寝た。その日はその館に泊まった。

 翌朝、今日も馬車ですか、と駄目元で尋ねると、
「昨日は長時間移動しましたので、お疲れでしょう? 今日はここで休みましょう」
 と言われた。
「お疲れ……いいえ、全然」
 言ってから、シィははっと思い付いた。この女性達も休みたいのでは……。
「分かりました。休みましょう」
 なんと初めて会話の成立したシィと女性達。言われるまま寝室で休んだ。扉は少し開けてくれと言った。魔法石で、足下は見えるように灯した。

 翌日の朝食中、女性達に訊かれた。
「今日はどうなさいます? 陸路でしょうか。それとも空路で」
 シィは考えた。自分はとうが立っているとはいえまだまだ二十代、元は奴隷女。こんなもの、疲れたうちにも入らない。むしろたっぷり休ませてもらった。いい加減、質問の答えとやらを知りたい。
「怖いですけれども、空路で」
 なぜこの女性達に、ここまで一緒について来てしまったのか。あまりにも胡散臭い。あの時ヒヒジジイが出て来れば、シィの予想は確定となった。
 だが誰も出て来ない。実際に起こった出来事は立派な食事、風呂場での丁寧なマッサージ、ゆったり出来る寝具、小奇麗な衣装。ここまでされて、物知らずなシィは流されてしまった。
 それに、もう帰れはしない。あの食堂ではすぐに、次の若い女の子を雇っただろう。
「かしこまりました。ご安心下さい、すぐですよ」
 優雅な朝茶を一杯いただいた後、外に出てみれば立派な竜が数騎いた。
 元より圧倒的な存在。田舎者のシィはただ目を見張った。この時点でシィは、主様の存在を忘れた。竜が大きい。真っ黒だ。
 体が反って倒れそうになるシィの背後に複数の女性達が回り、支えながら言った。
「大陸で二番目に大きく、たくさんの人数を乗せられる黒竜です。どうかご安心下さい、馬車よりも快適ですよ」
「……は、い」
 シィと女性達は同性同士、歳もさして変わらないのにあまり会話が成立しない。ただもう、落ちないことだけを心配した。
 前後に二人づつ、最後尾に黒竜を操る空兵。騎上、計六人でシィは空の旅へといざなわれた。

 縦も横も揺れはもちろん、風の抵抗・圧力さえ感じない。本当に快適な旅だった。これが飛行類の特徴で、危険な欠点を誘発する理由でもある。
 高度が上がると、シィは初めて海を見た。
「わあ……」
 水平線でわかたれた、海の色と空の色。
 共に青と名付けられる色であろうに、明確に違う。空は常に見ていたのに、これではまるで藍だ。
 シィがいるのは雲の上。上空、といわれる地点に初めて連れて来られたシィは、間違いなく高速で飛行しているであろうに、景色がゆっくり流れるのを存分に堪能した。飛行に不安はなにもなかった。

 初めての興奮する時間はすぐに過ぎ去ってしまうもの。シィの後ろにいる女性から、「もうすぐ着陸です」と言われ、もう? 残念、とはっきり思った。
 ゆっくりと高度が下がる。雲の粒を抜け、眼下に街が広がった。
「わあ……!」
 そこは建物、道の密集度がまるで違う大都会だった。
 どこにこのような大きい竜が降りるのだろう。先程出立した館には広い庭があったから数頭もの黒竜が飛び立てたのだろうが。
 シィの乗る黒竜は高度を落としながら旋回をし始めた。ゆっくり大きく、目的地に向かって。

 着陸した後、シィはひとり、美しく咲き誇る薔薇の園にいた。
 一体何種類あるのだろう、多種多様な色・花びらの麗しい園。そこにある二人掛けの椅子に座らされていた。
 あれから常にいた女性達さえ周囲にいない。シィは気配は読めないが、今、周りに誰もいないことは分かる。
 間違いなく、これから主様が来るのだ。
 この建物。大きな黒竜が数騎降りられる専用の発着場や、こんな園を内包出来る敷地の、大都会のど真ん中にある、荘厳な建物。
 シィの役割は、ただの床拭きではなさそうだ。第一、そんじょそこらの雑巾では無理だろう。皿も高価だろうし、洗うにしても落としたら弁償が持ち金ではとても足りない。
 下働きしかして来なかったんですけれども……。
 この薔薇園、においがいい。漂うかおり。香水を間違ってつけている男女は何人もいたけれど、これこそかおりと言っていい。
 心臓が煩くなりながら誰かを待つ。

 この園に通された門とは別の扉が静かに開かれる。誰かが入って来た。
 先日は相手の顔を見ないままただ頭を下げて失敗をした。だから、見てからと思った。そこでシィは言葉を失った。
「久しぶりだな、シャルロッテ」
 相手はゆっくり、堂々と歩み寄って来る。そして、立てないシィの隣、二人掛けの椅子の空いた所に座ってこう言った。
「ここに住んでくれ」
 明瞭な、滑舌のはっきりとした低い声の持ち主は、シィをしっかりと見つめていた。言葉が出ない。
 相手は視線を正面に向けると、咲き誇る薔薇を眺めた。
 ただ、かおりだけが漂う。

 シィはそんな相手の横顔を見つめた。相手は微動だにしない。多分、二年ぶりに見る姿。
“ここに”
 観光名所にでもなりそうな素敵な薔薇園。飛行類発着場は上空から見た限り複数。建物の周りは人でごった返す大都会の中枢。この園だけでなく、建物そのものが間違いなく観光名所。多分、誰もが一度は訪れたい場所。
 この大陸に、たった一つしかない建造物。
“住んでくれ”
 シィも視線を薔薇に向けた。見つめられても表情を変えない、そういう鷹揚な一面がこの男にはある。

 しばしの時が流れた。
「……はい」
 そうしてシャルロッテは、城のもう一人の主となった。