9

 それは何度目かの、なしくずしの交流の時であった。某日曜日の朝、山本家にて、このような発言があった。
「弟君っ!」
 唐突に言った者の名は今村麻衣子といい、俗に史上最弱の会長夫人と呼ばれている。
 その場にいた、発言者を除く者達は、こんなおばかなまぐろ犬の言った意味など全く分からなかった。

本日のお題「男は潔く謝るんでい。女子どもにゃ分かるめえ」

 発言者がビシリと指を差したその先をてんてんと追う。その先にいた人物とは。
「お。れ。……か?」
 人を指差すなど失礼。そんな社会通念上の常識も知らない麻衣子の短い指の先には、確かに山本忠弘がいた。
 指を差されなかった忠弘の妻清子と麻衣子の夫政人は、忠弘の発言を聞いてから、あの短い指の先の人物はやはりかと思い、そちらを見た。
 全員から注視されることとなった忠弘は、ただ困惑した。

 その後、ぎこちなくもほんの一部和やかな会話をして、午後十時半頃には両家は解散をした。
 山本家にて。
「ねえ、忠弘」
 ラスボス淫乱団地妻こと清子が夫に訊いた。
「なんだろうか」
 いつもは滂沱の忠弘が、お堅い言葉遣いで訊き返した。
「おとうとくんって、なに?」
「訊かないでくれ。俺も分からない」
 その場で当人に訊き返しゃいいだけである。
「忠弘って、弟がいたの?」
 忠弘の過去の話はタブーであるこの一家。
「少なくとも、俺に姉はいない」
「忠弘のお兄さんは?」
「兄さんは第一子だ」
「第一子? 妹とか」
「いることはいるが、今村会長夫人とはなんらの関係もない」
「うん。それは分かる」
 そりゃそうだ。
「じゃ、会長夫人が忠弘をビシッと指差して、弟君って、なに?」
「訊かないでくれ。俺にも分からない」
 その場で当人に訊き返しゃいいだけである。

 その日。訳も分からず、しかし腹は空き。清子はお昼ご飯を作り始めた。
 山本忠弘という男は、夜マスターベッドルームでまで妻と致さないという人物ではない。この物語はあくまでゴルフ・ストーリーであるのでなにをしていたのかは中略をして、日にちをまたいでもう深夜。月曜日となった時間。
 清子はすぐそばで眠っていた。ほとんど失神で。
 忠弘はというと、ただ寝てはいられなかった。あの謎の文字、いやさ言葉がありありと蘇る。
“弟君”
 なんだ、それは。
 山本家では忠弘の過去はタブー、知っているのは本人のみ。
 忠弘は一人っ子だった。五歳までの記憶では間違いなくそうだ。あの後にきょうだいなど生まれはしない。
 何故、あの史上最弱の、どう見ても拙くおばかな犬に、弟呼ばわりされねばならぬのか。
 忠弘は確かに会長夫人の年下ではある。それは間違いない。だがそれだけだ。
 夫人の夫の会長は、認めたくはないが忠弘が現在の会社に入社時の庇護者、後ろ盾である。
 しかし、誰が認めるものか。忠弘は独りで生きて来た。護って貰えるどころか、周囲は誰もが忠弘を捨てた。盾など、後ろにも前にもない。そんなものなど必要ない。求めもしない。あるのはこの、人生のほぼ全てに於いて研ぎ続けた牙だけだ。誰に不完全と言われようとも。
 そして得たのは妻、家族。
 確かに、非公式とはいえ父さんと呼んでいる者はいる。伝説の老人で、昭和の大人物であり、現在はご隠居である。
 兄さんと呼んでいる者もいる。上記老人の息子。チョビヒゲである。
 清子には実家があるので、義理の弟もいる。義理の父も母も。
 家族。……弟……姉。
 家族までは渇望した。それは間違いない。
 なにもかもが分からなかった。だから、延々と思い余って電話をした。
「やいてめえ! なんだあの弟君とは!!」
 相手も相手だった。
「最中だ! 大体今何時だと思っている、午前三時だぞ、非常識だ!!」
 それでぶった切られた。なら出るな。

 月曜日朝。一般サラリーマンの大嫌いなブルー・マンデー。清子が目を覚ますと、目の前には、揃いの品以外一糸纏わぬ滂沱のパンダがいた。
 驚いた。余りの泣きっぷりに、枕がぐっしょりと濡れていたのだ。これは今さっき泣き始めたのではない、大分前からだ。両目は真っ赤に充血、またも眠れず一晩を明かした模様。
「おはよう忠弘、愛している……どうしたの?」
 全く訳が分からなかったがそこは新婚〇年目、山本家主婦歴〇年目。夫の滂沱と不眠、その他モロモロはとうに慣れた。そこでこうした。忠弘が美乳と褒める乳房の谷に夫の頭を優しく手繰り寄せ、ねぶらせたのだ。
「ね、忠弘。月曜日だよ、出社しなくちゃ」
「うん、さぁや、さぁや……」
 結婚前から忠弘を出社させるのに一苦労の清子。さすがに今日は遅刻かと覚悟をした。

 朝食を調理中も忠弘は意気消沈のままだった。泣き止みはしたが。
 いつものマンネリ朝食だから思いを巡らせられもした。清子にとっては理解不能。私、夕べなにかしたっけ?
 夕べ? 致されたじゃないか、想いの丈。反抗などしなかった、出来よう筈もない、する気もない、結婚をしたからにはもう。
 あれから清子は心をキッパリと入れ替えた。その筈だったのに。
 夫が今なにを考えているのか、まるで分からなかった。

 理由を、忠弘は朝食中、ぽつりと述べた。午前三時という、一般的、いやどこの国のご家庭でも非常識な時間に電話をして叱られた、と。
「えっと……あの、相手も相手じゃない? 出なければ、鳴らないようにすればいいじゃない。今の電話はいくらでもそう出来るよ」
 その通り。
 しかし清子の正論を、忠弘は納得しなかった。電話をしてしまったのは事実だからである。その場で訊き返せば良かっただけなのに。
 そう言われては清子もこれ以上夫を立てられない。ならば取るべき道はただ一つ。
 忠弘が再就職をしたのち、二人の勤め人としての経験の差は開き続けた。しかし新人儀礼は共に受けた。
 それは、不滅の平社員の仕事とは誰に対してもひたすら平謝りをすること、である。
 仕事の出来る忠弘ならば言わなくても分かるだろう。むしろ口にすれば夫の、へし折ってはならない質のプライドを傷付けるだけ。清子は行ってらっしゃいのキスをして、弁当と鞄を持たせて夫を九時前に確実に出社出来る時間に家族を見送った。

 朝、妻を抱き締めることも出来ず家を出た忠弘は、九時前に出社、自席に座った。
 目の前の、固定電話を睨み付ける。
 現在の勤務先である、世間一般には大会社と言われるこの会社の情報の、レベル10と呼ばれる最高度のデータ閲覧権を持つ忠弘。この会社のトップ、雲の上の更に上の上司、代表取締役会長のスケジュールは把握している。本日月曜日は朝九時出社、午後五時退社。本社内に専用部屋がないご当人の本日の居場所は当ビル最上階。来客なし、一人で執務。
 時刻は朝八時五十分を回っていた。内線電話を掛けなければならない。私用携帯電話の番号は知っていても、そこには掛けたくなかった。なにせ社内だ。
 すべきことなど分かっている。平謝りだ。謝罪、常識的時間内、つまり朝一。直接。これしかない。
 今、ここは社内だ。ゴルフ場ではない。勤め人なのだ。社会人なのだ。相手は紛れもなく上司なのだ。本来頭も上がらぬ、ご尊顔も拝せぬ雲の上の更に上の人物なのだ。
 延々と考えても、時間だけが誰に関係なく過ぎて行く。
 忠弘はぐいと受話器を握り掴んだ。

 九時きっかりに大会社の最上階、社長室の固定電話が鳴る。これを直接鳴らせる先は相当に限られている。
 表示された内線番号を見て、本日のその部屋の主は瞬時に出た。さてなにを言って来るか。
 電話の相手はなにも喋らなかった。
 しばし待って。
「来い」
 それだけで切った。そしてすぐ、室外の警備員に内線電話を掛け、扉を開けたままにしろ、社員が来る、入室をしたらすぐに閉めろと命令をした。

 今村政人は内線電話をした後、社内で最も豪奢な席を立ち、鍛え抜かれた足取りで、マシンの背、机に長い脚を預けて、腕組みなどをせず、両手をスラックスのポケットに入れた。扉は開かれている。これは、ボクシングのライセンスまで持つ今村の男であれば、現在丸腰ですよと大仰に言っているようなもの。
 脚も組まずにただ待った。

 果たして社員はやって来た。すぐに扉は閉められる。
 社員、山本忠弘がなにかを言う、する前に政人は言った。
「ソファに座れ」
 今まさに、ガバァと豪奢な絨毯に手を付き謝ろうとした忠弘は機先を制された。部屋の主、会長様が部下の部下にそう言う、ということは。
 命令だ。絶対の。
 ただ従った。忠弘は社員だから。言われた通りソファの、長い黒本革の下座の端に、深くなど座らず、ちょこんと腰掛けた。
 すると政人は上座ではあるものの、端まで歩き忠弘の対面に、深く座った。そのさま、まさに気高く毅然とした迫力。完璧な戦闘服ことスーツの着こなし。ノーブルさまで漂わせ。総じて極上の男前。
 言われた通りに座った忠弘。何故目の前の人物が、こんな端まで来たかなどどうでも良かった。言わなくては、社会人の基本を。
 清子は退職直前、有事に際し、誰に言われずとも先陣を切って謝罪をした。そんな女性を妻として、仕事が出来ませんねそちらさん、など間違っても言われたくない。
 意を決して忠弘は、ガバァと頭を下げ言い切った。
「ごめんなさいっっっっっっ!!!」
「分かった。謝罪を受け入れた。もうなしだ。なにか飲むか。紅茶か。珈琲か。玉露か。煎茶か」
 それが社会人たる物言いか、でも。叱られる、でもなく。
 即断即決、さっさと話を切り替えられ。
 忠弘は頭を下げたまま、今度こそ逡巡した。

「どうした。喉も乾いただろう。なにがいい。俺は食の趣味を一目で見抜ける程のプロではない。訊かなければ分からん」
 ここは社長室。ただの社員が、味覚を喪っておりますのでなにも要りませんと言い訳など出来はしない。飲むと即答、種類を答えるしかない。
 さっきなにを言った? なんとかかんとか……
 そういえばさぁやは……
「……紅茶」
「分かった」
 政人はすぐさま立ち上がり、鍛え抜かれた足取りで歩いて行った。忠弘は頭を上げられなかった。顔など見たくなく、見られたくなかった。

 時間を置かず、政人が戻って来る。両手に持つ盆の上には紅茶を淹れる道具が載ってあった。出来上がったものを誰かに持って来させるべき一番の人物が、これから部下の更に部下へ目の前で紅茶を淹れようとしている。
 自然、忠弘の頭はゆっくりと上がり、そのさまを止めるでもなく、ただぼうっと、一連の流れを見た。
「……なにをしている」
「紅茶を淹れている。味が分からんのは知っている、いいから飲め」
 これを政人の知人友人が聞けば、飲めはないだろうと誰もが言うだろう。
 忠弘はもう、頭が空っぽになっていた。その通り飲んだ。まず一口つけて。
 しばらく考えていたようだった。政人は、どうだ、とは尋ねなかった。
 忠弘はそれからぐいとあおって、カップを空にした。
「どうだ」
 ソーサーに音を立てず置いたのを確認して、今度は訊いた。
「……あったかいものが」
 それが喉を通り、胃に落ちた。それは分かった。
「大進歩だな」
 なにを飲んでも熱いも苦いも分からない代物、毒と同じ。それに較べれば。
 そう、目の前の大嵐が微笑んだのを見て、忠弘は思わず絶叫した。
「ばかぁあああああああああああ!!!!」
 そして泣き、涙をぶっ飛ばして走って扉に突撃をし、腕力にものをいわせて無理やりブチ開けて社長室を出て行った。

 ただの社員がエレベーター前ですったもんだをして、それでも無理矢理乗り込んで、下階へと降りて行った音を確認して、政人は立ち上がり、防弾仕様で実戦経験者の大の男二人がかりで常には開け閉めをする扉を手ずから閉めた。
 それから社長席へと深く座り、ひとりごちた。
「……こどもか」

 ビル地下一階までエレベーターで降り、忠弘は走った。鞄も弁当も社内に置いたまま。
 現時刻、午前十時前、月曜日。こんな時間に社員、サラリーマンが最も行ってはいけない場所へただ走った。通行人に大迷惑を掛け、自宅へ。
「さぁやあ!!!」
 扉をやはり無理矢理ブチ開けて、滂沱のパンダは帰宅をした。繰り返す、現時刻は午前十時前。忠弘はただのサラリーマン、土日祝その他休み。
「お・か・え・り。忠弘、愛してる」
 清子は玄関の先のチークの無垢フローリングにいた。
「さぁやあ!!」
 忠弘は妻を抱き締めた。想いの丈、ぎゅうぎゅうに。抱き締め合おうとも考えず、髪の毛をほほで撫でる。
 腕も回せぬ清子は今朝、家族を送り出した後、携帯電話を握り締め、玄関前で正座で待っていた。夫からの、ありとあらゆる反応を。それがこれだ。
 窒息しそうな程抱き締められるのはいつものこと。眼鏡などしていたらその度壊れそう。心臓はどっきどき、気分はいつまでも新婚。ディ・ジオの香りがふんわりと漂う鍛え上げられた胸板は逞しくて温かくて、熱くてもう昇天しそう。
 それから深くくちづけて……

 結局、ロクに謝れもせず、仕舞いには大会社の天辺の社長室で会長様にバカと叫んで泣いて走って逃げて無断早退をした、という情けないにも程がある内容を、パンダは滂沱と共に報告をした。
「いいんだぞ言っても……情けない男は大嫌いだ、仕事が出来ない男は大嫌いだ、俺など」
 言葉を続けようとすると、
「あ・い・し・て・る」
 ハートマークを付けて、妻は夫に愛を告げた。
「あのね忠弘。休みの日のことなんだから、休みの日にまた皆で、今度はちゃんと話をしようよ。会長夫人に直接訊けばいいじゃない? 私、それに気付かなかった」
「……それは俺もだ。さぁや、俺を……」
 それでも捨てるな。そう続けようとすると、
「あ・い・し・て・る! ね、会社に戻って。そうしたら無断早退じゃないよ、ちょっと社外に出たってだけ。ね? 妻のお弁当、食・べ・て」
 忠弘ははっとした。そう、肝心な、愛の詰まった弁当を、あろうことか置いて来た。
「お仕事、し・て。お客様が待っているんでしょう?」
 それも事実である。妻は間違ったことは言わない。結婚前の過ぎたことをどうこう言う気はもうない。
「仕事……」
「うん」
「さぁやが俺を捨てないのなら……社に戻る」
「そんなこと出来ないよ?」
 もう。とっくに。

 忠弘はそれから土曜日が来るまで、そわそわしながら仕事をした。出来ない男とは言われたくないので、妻以外の目には誰にも一見キリっと見えるよう仕事をこなした。妻は夫を立てた。
 待って待った、土曜日。休みの日。山本家にて、朝食の後。
 忠弘は右手に携帯電話を握り締め、清子は忠弘の左手に指を絡め、レトロでノスタルジックなメインリビングルームに座っていた。
 程なくして、まるで約束されていたかのように電話が鳴る。
「もう来ている。開けてくれ」
 電話越しでも分かる腰が砕けそうなセクシー満点甘いバリトンの声の主の気配が、すぐ近くにいた。

 何度目かの、なしくずしの交流は、またも唐突に始まった。いつもである。
「こーんにーちはっ!」
 政人に抱き上げられ、腕を回す麻衣子が拙く挨拶をする。
「いらっしゃい……」
 山本家側は力なく出迎えた。

 両家はメインリビングルームで向かい合った。
「言いたいことがあるな。そちらから言え」
 ズバリ核心を突かれ、答えるしかなかった。妻に先陣などもう切らせない、忠弘が。
 皆が見ている前で今度こそはと表情を見据え、
「この度は」
 大変申し訳ございませんでした。そう言おうとすると、
「それはもうなしだ。他を言え」
 またも機先を制される。
 他、他……
 その通りにする必要などないというのに。ここは社内ではないのに。
 忠弘は考えた。
「……弟とはなんだ?」
 謝るなというならこれしかない。
 答えるべきは言った本人、はおばかである。山本家と今村家ではこの部分が決定的に違う。政人が答えた。
「そう思ったからだそうだ」
「……? 分からん」
「俺も分からん」
「埒が明かない。夫人、答えてくれ」
 問われた麻衣子は拙く答えた。
「そう思ったから」
 埒が明かない。
「麻衣はよくこういうことを言う。気にするな」
「するに決まっているだろうが!!」
 忠弘は怒鳴って立ち上がった。
「座れ」
 清子も諫めて、忠弘は力なく座った。
「いいだろう、別に。悪くはない」
「悪い!」
「そうか? だがもう、俺の友人には言った」
「は? ……なにを」
「お前が俺の弟だ、ということを」
「……は?」
「麻衣と出逢った後、友人に、聖域が出来ただろう、一番に教えろと言われた。即答出来なくてな。仕事で多少世話にもなった男だ。これならばあの時の借りを返せると思って言った。大昔から一子相伝の今村に弟かと大層驚かれ、この情報はあっという間に世界中に広まったが気にするな」
「気にするに決まっているだろうがぁああああ!!!」
 今日の交流も、結局は滅茶苦茶だった。

「細君。妹、と呼んでも構わないだろうか?」
「嫌」
 予定された会話だった。清子は政人を直視などしない。
「弟」
「嫌だ!」
「弟君(はぁと)」
「う……」
 こんな拙いおばかな犬に、全員が反論出来ない。
 ひょっとするとこの最弱夫人、結構出来るのでは……
 そう思った頃、
「細君。ひょっとして、弟に紅茶を飲ませたことがないのだろうか?」
「誰が弟だ!」
「全略すると。そうよ、だって紅茶を淹れるのって難しいんだもの」
 清子は前歴の悪い政人となど会話をしたくもなかったが、先ほどの言葉を借りれば夫はこんなのに大きな借りを作ってしまった模様。それで答えた。
「……そうなのか? さぁや」
 料理のりの字も知らない忠弘が今更気付く。
「うん。難しいよ? 渋くなるか薄くなるだけ。丁度いいタイミングを本当に分かる人はプロだと思う」
 それを指名し、飲んで、あったかいなどと言ってしまった忠弘。
「私、手抜き料理しか出来ないけれど。でも忠弘は、それがいいって言ってくれた。食べてくれた。だからプロポーズ通り、手料理を作っている。本当はもっと、上手で繊細で、手の凝ったものを食べて欲しい。好きな人には。家族には」
 他の誰あろう、政人が小さく頷いた。
「だからせめて、飲み物はと思って。コーヒーは自信があるよ、小さい頃から躾けられたし。でももし紅茶を淹れろと言われたら、そう……あの頃から今までくらいの時間を掛けないと無理。美味しいのを飲んで欲しいから、自信が持てるまで、どんなに頼まれても紅茶は淹れない」
「俺は挿れる」
 これは一応ゴルフ・ストーリーなので中略をして。
「分かった。他に言いたいことは」
 何故そうすぐに頭を切り替えられるのだろう。山本家、ついでに麻衣子も、一応思った。
 忠弘は言いたいことがあったが、妻の前では言えないことだ。ぐっと堪えた。
「ないようだな。ならばこちらも会話を言おう」
 さっぱり会話になっていないことを政人は断言した。
「麻衣が弟君、と言ったのは。おそらくだが」
「おそらく?」
 そんなあやふやなことを言いそうにない男が。
「細君。俺達が以前ここへ来た時、カレーを作ってくれたな」
「それが?」
 清子は本当に、政人となど会話をしたくなかったので、手短に答えた。
「中学生が調理実習で作るようなカレーだ、と言ったな」
「それが?」
 イヤミか。
 清子とて、政人が仕事だけではなく、食べ物も紅茶もコーヒーもなんでもござれという人物であろうことくらいは分かっている。
 それでもいつものカレーを作った。あのカレーは愛する夫の大好物だからだ。それだけで、あんな男など知ったことかといつもの通り投げやりに思ったのだ。
「だからだ」
「……は?」

 その日の夜、書斎にて。
 忠弘は清子に滔々と述べた。今村の弟と呼ばれれば、忠弘がどういう状況に陥るのかを。
「父さんの第一子、兄さんはともかく」
 書斎の忠弘の椅子に忠弘が座り、清子を膝に乗せ抱き締める。
「第二子、第三子、第四子。および孫、ひ孫に至る者達は。
 昨今の世の中、仮に災害等非常事態が我が身に降りかかった場合、なにをどうするのかというと。
“持って逃げるのは親の金”
 昭和の大人物を盾として、勤労労務などを一切せず、非常勤で役職と報酬だけは偉そうなものを貰い、遊び呆けて生きているボンクラ揃いだ」
 清子は途端苦々しい顔になる。結婚前まで勤めていた会社の、ハゲ面の下らない社長のご親戚。分不相応な金を得、堕ちて行った者達。あれらと同類だと忠弘は言っている。
「俺は独りで生きて来た。これが俺の牙だ。
 だがいくら非公式と言っても顧客先にはあの大人物の息子ですかと言われる。更には室町時代から続く名家、今村に関わったとなれば、今度は今村の弟でもあるのかと言われる。
 誰も俺を山本忠弘と認識しないんだ。さぁやの大嫌いな男に、俺はなっているんだ!!」
 忠弘は妻をぎゅうぎゅうに抱き締めた。清子はなんとか息が出来る態勢を取った。
「忠弘が今でもあの大会社でサラリーマンをやれているのは忠弘の実力でしょう?
 私の大切な友達があの大会社にいるよね、凄く仕事にシビアな人が。つまりは大会社自体が仕事にシビアということ。
 そこで生き残れているのは、他人の力なんかじゃない。
 間違いなく、私の夫の実力。そうでしょう?」

 月曜日朝、出社した忠弘の席の固定電話が午前九時きっかりに鳴った。表示された内線番号はレベル10の情報通り。出るしかなかった。来い。それだけを言われた。
 その通りに忠弘が向かった、当ビルに専用部屋がない人物の本日の居場所には、あの日のように完全非戦闘態勢で待つ代表取締役会長がいた。
「ソファに座れ」
 ただ、黙って下座の端にちょこんと座った。
 政人はまたも忠弘の目の前に座ったが、今度は飲み物の話はしなかった。代わりに言った。
「麻衣の前では言えない話だ」
 つまりは清子の前でも言えない話ということ。
「確かに休日の話だが、ここでするのはその為だ」
 今日は最上階ではなかった。それでも充分に、豪奢な部屋だった。
「カレーの話を補足する。
 俺は、麻衣と結婚式も挙げない前に、俺の作るカレーは日数が掛かると言ってしまった。
 麻衣に俺の昔の写真を見せたら、暗くなられて落ち込んだと言っただろう。麻衣は俺との差を感じ、一人抱え、吐き出せずにいる。今でもだ。
 だがお前達は違った。
 あのカレーなら麻衣でも作れる」
 たとえ小学生が遠足で作るようなものだとしても。
「最初にお前達の家に家庭訪問をした時、麻衣が緊張していたのは分かったな。だが最初に名乗ったも麻衣だ。
 それから交流を重ねる度、麻衣の緊張は解れて行った。
 お前達とは差がない。そう思い、親近感がわいてああ言ったのだろう。推測ではあるが、外れてはいまい」
 忠弘は答えなかった。それは今村家の事情ではないか。結局は夫人の惚気を聞かされただけだ。
「貴様のお蔭で客先に行けば、今度は「更に今村の弟か」と言われるんだぞ! 誰も俺と認識をしてくれないんだ!!」
「なんだ、それしきか」
 政人、即答。
「つまらんな。そんなことでは家族を、従業員を養えんぞ」
 カっとなった忠弘は反抗心剥き出しに、今度のゴルフでは十八ホール全てでオーバードライブをしてやると捨て台詞を叫びまた扉をブチ開け部屋を飛び出て行った。

 ゴルフ場の一般的な十八ホールにはショートホールというものが必ずある。そこでは男子はまずドライバーを使わない。大抵はアイアンでピンそばに寄せるか直接入れるかだ。相手のボールをオーバーしてもピンから遠く外れては意味がない。パターで苦しむだけだ。
 つまりは十八ホール全てでオーバードライブなど字面がいいだけで、なんの意味もない屁理屈である。仮にそうだとドライバーが上手い体格のいい者が勝つだけだ。ゴルフとはそんなに底の浅いスポーツではない。ドライバーで400ヤードをかっ飛ばしても一打、パターで1cmを打っても一打。競技年齢は幅広く、シニアも女子もある。上がってナンボだ。やっとゴルフ・ストーリーらしくなって来た。

 余裕綽々で帰宅をした政人は、聖域と定めた恋する妻に、かようなことを言われた。
「まーさーと。今度、清子達とカラオケに行こう?」
 政人が以前、自分はカラオケの雰囲気は好きではなく、知人とてカラオケに興ずる今村の姿は想像出来んとはっきり言っていたことなどコロリと忘れた発言。単なるいつものおばかな思い付きだった。
 今村の男にとって、聖域が白と言えば黒でも白。政人は分かった、とだけ返事をした。

 数日後、やって来ました某カラオケボックス。ビル丸ごと貸し切りである。これだから金持ちのすることはと清子は思った。
 なしくずしの両家の交流は、またもおばかの発言より始まった。
「一番、麻衣!」
 なんとあの麻衣子が歌い手トップバッター。カラオケの機械を操作出来るのか。その場の誰もがそう思い、政人がやろうとすると、そんなものの存在すら知らぬとばかりに歌い出した。どこがカラオケ。
「〇〇~〇〇~〇〇~」
 忠弘が嫌々小声で政人に訊いた。
「……なんの歌だ」
「麻衣の大学の校歌だな」
 清子の耳にもそれは入った。
 麻衣子の歌声など拙いどころか音痴に決まっている。政人はひたすら合いの手を入れ、麻衣子が歌いおわると盛大に拍手をした。忠弘と清子は、ここは社会人の常識と、お義理で小さな拍手をした。
「二番、弟君!」
 いつからこの場はこんなおばかにコントロールをされると決まったのか。しかし政人は麻衣子が白と言えば黒でも白。言われた忠弘は麻衣子の年下。政人に命令された訳でもない。この場はカラオケであるし、清子に聞いて貰いたいとの一心でマイクを握った。
 曲のタイトルは「Danger Zone」1986年に大ヒット、一世を風靡したかの名作映画の主題歌である。イントロを聴いただけで元気な者なら沸騰し、疲れた者でも沸騰せねばならぬと思わせられる、誰もが「歌いたいけれど超難曲」と思っている名曲である。
 すると数舜で、政人が流れる曲を一時停止した。
「なんだこの野郎!」
「ギターが必要だ」
「そりゃそうだが」
 その、ギターも超絶技巧が必要ではないか。
 すると政人はどこから出したかギターを手に弾く気満々。あなたはマジシャンですか? っていうか、そんなの出来ます?
 忠弘は顔を引きつらせ、しかし怯まなかった。なにせ妻の前なのだ。曲を最初から掛け直し、歌い始めた。
「〇〇~〇〇~〇〇~」
 あの、誰もが知っている英語をバリバリのネイティヴで。声量が必要なのをものともせず。
 政人はというと、どこで習ったの? 毎日練習でもしていましたか? とツッコミたくなるような超絶技巧を披露した。なんだこの二人。清子はそう思った。麻衣子は拙く拍手をした。
「三番、政人!」
 またもおばかの号令が。政人は即座にマイクを握った。忠弘と清子はそちらなど見なかった。
 曲のタイトルは「Despacito」TEE訳詞版。ばりんばりんのラテン系、セクシーなほぼ日本語の歌詞を大熱唱。わざと原曲のスペイン語や、世界各国の言語でカバーされたそれでなく日本語としたのはひとえに聖域・麻衣子が日本語以外理解不能な為である。おばかは拙く拍手をした。
「四番、清子!」
 歌える残りは清子しかいない。黙ってマイクを握った。曲のタイトルは「伊勢佐木町ブルース」
 歌う前にあはんうふんと喘ぐ清子。慌て驚き止める忠弘に、
「これ、加納家の十八番だから」
 忠弘は大変に困った。そしてある程度予測をしていた。大体あの家族はどこかおかしいと思っていた。電話に出てハイあなたの加納です、はないだろう。その末がこれか。

 結局麻衣子は次に高校、中学校、小学校、幼稚園歌を歌っていった。どれもカラオケに登録などされていない。はっきり音痴、拙いばかり。おばかである。
 二番、忠弘はひたすら肺活量が必要なものばかりを熱唱した。マライア・キャリー「Without You」、セリーヌ・ディオン「My Heart Will Go On」、ホイットニー・ヒューストン「I will always love you」、スーザン・ボイル「夢やぶれて」、ポール・ポッツ「Nessun dorma」、BENNIE K「Dreamland」等々。各国の言語の通りネイティヴで。m.c.A-T feat. DA PUMP「Bomb A Head! Returns!」はカラオケボックスのテーブル上でブレイクダンス。〆の一曲はかの有名な「HOT LIMIT」をあの通りの振り付けで。清子は“あのスーツを縫わねばならぬか”“扇風機を持って来た方が良かったか”などと思って毎曲大拍手をした。忠弘曰く営業で鍛えたというが鍛え過ぎである。根が極端なのだ。
 三番、政人はひたすらラテン系、どれもセクシーな日本語カバー版ばかりを歌いまくった。一つだけ日本語ではない曲を歌ったが、世界一スケートの上手い芸人版ではなくあろうことかMax Raabe版「Sex Bomb」べろんべろんに巻き舌の変態紳士曲。某新御三家が歌う「GOLDFINGER '99」に至っては、かの有名なジャケットプレイまで披露した。全ては聖域の為、バカといえばバカである。忠弘と清子は思った、ノリノリだな……
 四番、清子はかつて「十代の少女がそんな際どい歌詞を歌うか?」と言われた大ヒット曲ばかりを歌っていった。曰く加納家伝統のメドレー。忠弘はその度止めたが「私、これしか歌えないよ?」で撃沈。どいつもこいつも大概である。

 各々の熱唱もお開きとなって、帰るすがら。
「今日カラオケ大会が開催されたことを誰かに言うか?」
 政人に問われ、忠弘は即答した。
「誰が言うか! 大体何故貴様がさぁやの歌声を聴くんだ! 耳を塞げ!」
「そうか。ならばこれはあくまでいつもの交流だ。もう一々言わん。いいな」
 さっさと完璧な解決策を言われて、山本家は黙らざるを得なかった。なお、おばかな麻衣子は口外をするという概念を知らない。

 平日のとある日、
「おお……おまえは俺が弟でいいのか」
 忠弘は肝心なことを、午前三時に、電話で政人に訊いた。妻の清子はすぐそばで眠っていた。
「いい」
 またも即答。
「大体、何故、今もだが、電話に出るんだ。最中なんだろう」
「もう寝かせた。だから言うが」
「なんだ」
「前回も、今回も電話に出た理由」
「……なんだ」
「お前達に非常事態が起きたのかと思った。だからだ」
 今村政人の携帯電話を深夜に鳴らせる人物は相当に限られている。
「俺達がそのマンションにいた頃、詳しくは省くが麻衣に非常事態が起きた。ああいうことがまた起こったのかと思った」
 忠弘はなにも言えなかった。
「答えたぞ。お前ももう眠れ」

 言われた通り眠った忠弘の携帯電話へ、その日朝八時五十九分に通話でなく連絡が入った。 “次のゴルフの予定はいつだ。俺の〇〇二勝お前の〇〇一敗だったな、俺の聖域の惚気を聞け”
 忠弘は怒り狂ったが社内だったので我慢をして、午後五時きっかりに自席を立ち、社内で私用電話可能エリアに走って行って電話をした。
「俺が〇〇二勝でお前が〇〇一敗だ、数も忘れたか、ばか!」
「お前の記憶力はそれしきか」
「ばかやろう! んなわけあるか! 誰がこれ以上惚気など聞くか!」
「麻衣を姉と呼んでくれ」
 喧嘩腰からいきなりトーンが下がり、忠弘は戸惑った。
「俺は麻衣が白と言えば黒でも白だ。麻衣の願い通りにしたい。協力してくれ」
 忠弘は答えられない。
「お前には義理だの非公式だのに、父、兄、母、弟がいるな。ならば姉が加わっても良かろう。それとも麻衣に、なにか不満があるのか?」
 言葉に詰まる忠弘。
「出来れば直接頼みたいが、嫌われているのは重々承知している。細君にも麻衣を姉と呼ぶよう、お前から頼んでくれ」
 なにも言い返せない。
「忠弘。お願いだ」

 その日、夕方。空の弁当箱、鞄を持ち、忠弘は重い足取りで自宅へ帰った。
「ただいま……」
 帰宅をすると、可愛い盛りの男の子と女の子。そして愛する妻が、いつものように待っていた。
「お・か・え・り。おとうさん」
 玄関を開ける前の気分などどこへやらとブっ飛ばし、忠弘は愛する家族をガバリと抱き締めた。
「さ、ごはんにしよ?」
「うん!」

 その日の夜、書斎にて。
 忠弘は清子に、今村会長夫人を姉と呼ぶ気はあるかと、それだけを訊いた。
「いいんじゃない? 私、ほら弟はいるけれど。だからね、兄とか姉とかに憧れていたの。うらやましかったな。忠弘、うらやましいということはいいことなんでしょう?」
「……うん」
 自分が言った言葉だ。否定は出来なかった。
「忠弘だって、お姉さんって呼んでも、構わないんじゃない? 誰も心無いことを言わないでしょう? あの女性(ひと)なら」
「……うん」
「じゃ、今度の交流の時は揃ってお姉さんって呼ぼうね」
「さぁやが、そう言うのなら……」
「そう、忠弘は妻の願いを叶えたの。ね、そうでしょう?」
 願い……

 某月某日、平日。約束の日に、男二人は都内の某ゴルフ場に到着した。どちらも中身は毛糸のぱんつ。勝つ気満々だ。
 着替えてクラブハウスを出る。日差しが眩しい。快晴だ。
 年下の忠弘が最初に打つ。ティーを刺し、ボールを置き、素振りを一回。構えて打つ。
 手応えの全くない快音が響き、ボールは高い弾道を描いた。
 忠弘は白球の行方を見定めてから、後ろに飛んだティーを拾ってすぐその場を退いた。政人も同様に打つ。
 ゴルフバッグを肩に、二人で300ヤードを歩く。
 200ヤードほど歩いた所で、忠弘が小声で渋々言った。
「おおお、……おまえが勝ったなら、おおおねえさんと呼んでやってもいい……」
「ならば今呼べ。俺の勝ちはとうに決まっている」
 高麗芝の上で二人は散々大喧嘩をし、前と後ろの組に、随分うるさいツーサムだな、と思われた。